「徳川家康の暗殺計画」殺害を目論んだ武将の正体 家康の声望が高まる中で起きた大きな危機
慶長4年(1599)閏3月、豊臣系武将7人の石田三成襲撃事件を解決し、伏見城に入城した徳川家康の声望は高まり「天下殿」と称する人もいたが、その家康に同年9月、危機が訪れる。
同月7日、重陽の賀のため、大坂に赴いた家康を、増田長盛(いわゆる五奉行の1人)が訪れ、驚くべきことを告げるのだ。それは、大坂城中において「家康暗殺計画」が進行中であるというものだった。
首謀者は、金沢の前田利長(亡き前田利家の子。母は芳春院)。利長は、浅野長政と豊臣家臣の土方雄久・大野治長らと談合し、大坂城中で家康を殺害しようとしているというのだ。
この報告を受けて、家康は重臣(本多正信・本多忠勝・井伊直政)と対策を協議。
結果、伏見より兵を呼び寄せ、警護を厳重にする方策をとることになった。御供の数も通常より増やすことにもなった。
三成と家康は対立関係にあったのか?
重陽の賀を豊臣秀頼に述べるため、9月7日、大坂入りした家康が宿泊したのが、石田三成の屋敷であった。三成の屋敷は、大坂城三の丸にあり、利便性を考慮したのだろう。
同月9日には、秀頼への挨拶を済ませた。警備を厳重にしたおかげで、家康が大坂城に入っても、何事もなく、時はすぎた。
そして、9月12日、家康は石田正澄(三成の兄)の屋敷に入る(正澄の屋敷も便利な場所にあったに違いない)。こうしたことを見ていくと、家康と三成の関係は険悪化しているようには思えない。
一般的な印象では、秀吉没後、特に家康と三成はするどく対立し、その関係は悪化の一途を辿ったかのように思われているが、家康の大坂での滞在先を見る限り、そうとは思われない。2人の関係が悪ければ、家康もわざわざ三成やその兄の屋敷に泊まることなどなかったであろう。
さて、重陽の賀を終えた家康は、大坂城西の丸に居座ることになる。伏見城から大坂城に居を移したのだ。しかしこれは「家康を伏見城の留守居の責任者とすること」「家康は3年間在京しなければいけない」という秀吉の遺言に背くことであった。
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