インディ・ジョーンズに米諜報部が依頼した真因 「金銭的価値」「客観性のくびき」から自由な存在
しかしこの個々に求められる独自の能力の前提には、「役に立つスキル」という限定があるのです。政治思想家の白井聡は、現代社会を支配する新自由主義の価値観をこのように述べています。
資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。
(白井聡『武器としての「資本論」』東洋経済新報社、71頁)
「客観性のくびき」から解き放つ作品
横並び、出る杭は打たれる、同調圧力が強いと言われる日本社会には、単一の答えのないポスト工業化社会への適用は難しいと思うかもしれません。
それは現代社会を生きる僕たちが新自由主義の価値観に染まり、人間が資本に奉仕することを当然だと見なしてしまっているからです。
時代を遡れば、幕末であったり、大正デモクラシーの時期であったり、強烈な個性を持っていた人々が日本にも存在したことは歴史が証明しています。
例えば土佐の自由民権運動家であった植木枝盛は「自分こそ真の愛国者である」と思っていたはずです。そこに「君が代を歌うこと」とか、「国旗に頭を下げること」といった「愛国者の客観的な要件」を気にすることはなかったでしょう。インディ・ジョーンズも一般的な考古学者や冒険家と比べて、「俺って考古学者でいいのかな」とは思っていなかったでしょう。
そういう意味で本作は、ちょっと変わっているけれど人々の主観を認め合い、それを許容する社会から構成されたアメリカと、客観的な基準によって社会のメンバーか否かを判断されるナチス・ドイツの戦いであったともいうことができます。
どちらが個の力を活かすことができるかといえば、言うまでもないでしょう。
インディ・ジョーンズの活躍は、すっかり経済構造はポスト工業化社会に変わって久しいにもかかわらず、また新自由主義的な価値観によって他人との比較を強いられ、未だに客観的な基準を求めてしまう「客観性のくびき」から僕たちを解き放ってくれます。
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