政治家が好きな「ガラガラポン」というふざけた言葉が国会の論戦でも頻出し、「もうガラガラポンするしかない」とまじめ腐った顔で語り、すぐに平成維新とか、ゼロクリアの革命を求める議論やネーミングが流行るのである。
「すべて財務省が悪い」というのが昭和や平成の前半に使われた論理だが、平成の後半と令和においては、スケープゴート(贖罪の山羊)は日本銀行となっている。そして、リフレ派は「インフレになれば、すべての停滞が一気に解決する」と主張し、そのためには「ただマネーをばらまけばよい」と主張したのである。
政治的には「デフレ脱却」「デフレマインド脱却」がキラーフレーズ(殺し文句)となり、とにかくインフレにすればすべてが解決するということになってしまった。そして、こともあろうに、日銀自身までが「悲願の物価上昇率2%達成が目前」とまで言い出す始末となっている。
つまり、似非(えせ)エコノミストだけでなく、まともなマクロ経済学者、マクロ金融学者、日銀エコノミストまでが、物価上昇がすべてという議論にはまってしまっているのである。
「証拠に基づく政策立案」による改善効果は?
一方、ミクロの経済学者はどうしていたのか。彼らは、この乱暴な「政策マーケット」の議論に腹を立て、エビデンスベースの政策決定を声高に主張した。EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング。証拠に基づく政策立案)というやつである。この結果、今度は「詳細なミクロデータがある政策だけが正しい」という風潮が高まった。
その結果、どうなったか。昔から繰り返し行われている政策については、多少の改善が見られた。エビデンスなしに、なんとなくイメージで効果があると思われていた政策の一部が「効果が薄い」として縮小していったのである。
これ自体はすばらしいことである。しかし、それは政策全体の1%未満の領域での改善にすぎない。なぜなら、多くの政策は、効果があるかどうかではなく、政治家あるいは利害関係者がやりたい政策を行っているだけであるから「効果が薄い」といわれても、意に介さない。「マイナスではない」「これで助かっている国民が1人でもいる以上、廃止するわけにいかない」という論理で、多くの予算が割かれているものについては何の改善も見られなかった。
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