「離婚させられ家康の妻に」秀吉の妹の悲惨な末路 強引すぎる秀吉の行動、その後の朝日姫は?

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各地で甚大な被害が出るなか、最も大きな被害を受けたのは、織田信雄の領地だったようだ。「小牧・長久手の戦い」では、家康に泣きついておきながら、秀吉と和睦してしまった信雄だったが、この地震ののちには、秀吉と家康の間に積極的に入って、戦が起きないように間をとりもっている。両者とも地震の影響で戦どころではなくなったこともあり、天正14年正月に、信雄が岡崎城に出向いて、秀吉と家康との間にも和議が成立することとなる。

同時に秀吉は、戦で叩くのではなく懐柔することで、家康を自分の臣下として従わせようとしている。秀吉は上洛を何度も促すが、家康からすれば、重臣たちの秀吉への反発も無視はできない。あくまでも臣従を拒否する姿勢を貫いている。

妹を離婚させた秀吉のえげつなさ

そこで秀吉は次なる一手として、自分の妹である朝日姫を、家康の正室にと差し出した。『徳川実紀』によると、秀吉サイドから次のように持ち掛けられたという。

「家康の北の方は先年あることが起こったあと、いまだ正室を迎えられた方も聞かない。秀吉の妹を差し上げたい」

朝日姫の母は、秀吉の生母と同じ大政所である。大政所は、前夫である木下弥右衛門が死去したのちに、幼い秀吉を連れて、筑阿弥(竹阿弥)と再婚。秀長と朝日姫が誕生したとされている。

秀吉はそんな朝日姫を家康の正室にと送り込んだわけだが、朝日姫は44才で、すでに他家に嫁いでいた。夫の名には諸説あるが、尾張の農民から武士となった佐治日向守だともいわれている。

秀吉は朝日姫を離縁させてまで、家康に嫁がせたのだから、あまりにも強引だ。

家康はといえば、秀吉の妹を正室として受け入れながら、それでもなお上洛を渋っている。粘れるところまで粘ろうという腹だったのだろう。

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