そして12月12日には、秀吉は「家康の子どもを養子として迎えたい」と言い出した。『徳川実紀』によると、秀吉からは信雄を通じて、こんな要請が行われたのだという。
「秀吉の年齢は早くも50才になるが、いまだ家を譲る男子がいないので、徳川殿の御曹司のうち1人を申し受けて養子にして一家の交わりを結べば、天下にとってこのうえなくめでたいことである」
家康は、これに応じるほかなく、次男の義伊(ぎい)を養子として送っている。このときに、石川数正の息子である勝千代と、本多重次の息子である仙千代も随行した。
家康勢が幸先よく劇的な勝利を飾ったことから、小牧・長久手の戦いについて「実質的に家康の勝利だった」と喧伝されることもある。だが、和議の内容からして、実質的にも秀吉の勝利だったと言わざるをえないだろう。
翌年になると、秀吉の勢いはさらに増していき、四国の長宗我部元親や、越中の佐々成政など家康勢と通じていた諸勢力も、秀吉の軍門に下っていく。
そして、7月11日には、秀吉が従一位関白に叙任される。「藤原秀吉」として内大臣から関白となり、われこそが政権を担っていくという姿勢を打ち出すこととなった。
石川数正の逃亡で家康が大ピンチ
家康が孤立していくなかで、秀吉は9月になると、家康にさらなる人質の提出を強要。そのうえ上洛まで求めてきた。時期的には、徳川勢が上田合戦で真田昌幸に敗れたばかりの頃だ。家康はいよいよ劣勢に立たされている。
そこで家康は10月28日に、諸将たちを浜松城に収集。今後の秀吉への対応について話し合いを行っている。
「これ以上、人質など出す必要はない」と、酒井忠次や本多忠勝をはじめ秀吉との全面対決を望む家臣が圧倒的に多いなかで、「秀吉と融和すべきだ」と唱えた重臣がいた。石川数正である。
数正は外交役として、秀吉との講和交渉にあたってきた。それだけに、秀吉のとてつもない勢いを肌で感じていた。なにしろ、京には豪華な聚楽第を築いて、関白の地位にまで上り詰めているのだ。強硬論者のように「調子づいた秀吉を撃つべし」と単純に考えることが、数正にはどうしてもできなかったのである。
数正は秀吉に通じているのではないか――。数正があまりに秀吉に対して弱腰なために、そんなふうに疑いの目を向けられることさえあった。前述したように、数正の息子が秀吉のもとにとられていることも、そんな噂に信憑性を持たせたらしい。
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