すると今度は、自分の母親まで送り込んで、秀吉は家康を自分に従わせようとしてきた。そんな「狐と狸の化かし合い」のような攻防戦の末、家康がついに折れて、天正14(1586年)10月24日に上洛。27日に大坂城で秀吉に拝謁することとなる。
二度も正室を亡くした家康
朝日姫はというと、7カ月ほど浜松城ですごしたのちに、家康の移動に伴って、駿府城へ。「駿河御前」と呼ばれた。だが、やがて聚楽第に住むようなり、家康のもとに嫁いで4年後の47歳で朝日姫は死去している。
東福寺に埋葬された朝日姫には「南明院殿光室総旭大姉」という法名が与えられた。罪滅ぼしなのか、秀吉は同境内に南明院を建立。菩提を弔っている。
築山殿に続いて、今度は朝日姫と、二度も正室を亡くした家康。これ以来、生涯を通じて、正室をとることはなかった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)
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