もはや、ここには自分の居場所はないと感じたのだろうか。話し合いから半月後、数正は出奔。妻子とともに、あろうことか秀吉のもとへと向かうこととなった。
家康にとっては、寝耳に水というほかはない。重臣の思わぬ裏切りに大きなショックを受けながらも、家康は軍制を刷新している。数正が秀吉方についた今、家康陣営の状況は相手に筒抜けになってしまっているからだ。
合わせて、家康は岡崎城や東部城などの普請も始め、本多重次を新たな岡崎城代に任命している。必要に迫られて、バタバタのなかでの組織変更となった。
一方の秀吉からすれば、家康にダメージを与える、これ以上の好機はない。数正が出奔してからわずか6日後、秀吉は動く。上田合戦で家康に勝利した真田昌幸に書状を送り、数正が家康のもとを去ったことを知らせたうえで、自身が家康を討つと宣言。真田に協力を要請している。
また、家康も甲斐や信濃の国衆に人質を出すように求めて、自陣の結束を固めるべく動いている。北条との同盟も強化しながら、安房の大名である里見義康に書状を出して、誓約を結んだりもした。
まさかの大地震が発生
秀吉の勢いに押されながらも、確実にやれる手を打っているのが、家康らしい。秀吉との対決も近いかと思われたが、事態は意外な方向へと転がり出す。
鼻息荒く家康征伐を真田に宣言した秀吉だったが、まさに攻め入ろうとしていたタイミングで、大地震が起きる。天正13(1586)年11月29日、中部地方から近畿地方にまたがる広域に発生した天正地震のことだ。
天正地震の震央(震源の真上の地表の地点のこと)は岐阜県大垣付近で、推定マグニチュードは7.8とされている。震度5~6の揺れが富山から大阪にかけて広範囲で起こったというから、ただ事ではない。
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