行動と自覚を融合させるフローの典型的な身体性は、読書にはないものの、読書は人を自己超越へと向かわせることができる。
たしかに、読書は精神的刺激の一種だ。それにもかかわらず、その中にすっかり身を置いていると、内と外の、気を散らすものを乗り越える手段になりうる。たとえ心は詳細や主題を追っていても、人はそれでもなお、その中にいられる。
外部の音や情報に心を開いていない。自分の過去や未来について、善悪や是非の判断や期待を抱いていない。
宗教の伝統に見られる「聖なる読書」
心理学者のジーン・ナカムラとチクセントミハイは、読書や、考え事をしながらのいたずら書きのような、2人が「マイクロフロー活動」と呼ぶものの研究という新領域を提唱した。これらの活動は、「注意の調整の最適化をするうえで、重要な役割を果たすかもしれない」と2人は考えている。
カトリックと英国国教会の伝統には、「レクティオ・ディヴィナ」と呼ばれる修練がある。「レクティオ・ディヴィナ」というラテン語を訳せば、「聖なる読書」となる。書かれた言葉の観想を通して有意義な空間を育てることを指す。
この修練では、これ以上ないほど深く集中して聖典の1節を読み、それからその意味についてじっくり考える。「ディープリーディング」に似て、これも言葉と可能なかぎり直接出合う試みだ。最小限の概念のメッキしかない。
同じような経験を、話し言葉の中に見つけることも、ときどきありうる。エステル・フランケルは、こう語ってくれた。「優れた礼拝指導者は、祈りの間に必ず静寂を織り込みます」。
彼女は自分が属する伝統の、「ユダヤ教再生」と呼ばれる詠唱に基づく礼拝を次のように説明した。「詠唱は感覚を十二分に使います。心が静まり、静寂に浸る準備が整います」。
神聖なストーリーテリングのときにも、似たようなことが起こる、と彼女は言う。「あなたがユダヤ教ハシド派の物語を語るとしましょう。とても上手に。禅の公案のような静寂の瞬間があり、心がそれを理解しようとし、それから諦めるというような感じです」。
彼女は礼拝指導者として、そうした瞬間を楽しむ。彼女は、次のようにつけ加えた。「心に減速させなければなりません。良い詠唱、良い祈り、良い物語は、人をいつもとは異なる状態に導き、静寂に向けて準備させます」