特攻隊「と号」の教育係を命じられた下士官の覚悟 覚悟を決めよ!自分は必ずお前達の後に行く

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山本琢郎 大正11年12月18日生(『生きのこる 陸軍特攻飛行隊のリアル』より)

千島から中部太平洋の守りを固めるという絶対国防圏がサイパン玉砕により崩壊し、代わって企画された捷号作戦に含まれたのが、体当たり攻撃なのである。

陸軍では航空機による特攻は昭和19年11月、鉾田(ほこた)教導飛行師団で編制され、フィリピンに送られた万朶(ばんだ)隊が最初である。

大本営は万朶隊の戦果を華々しく報じた。こうして、フィリピンでは約650機が特攻に投入された。そのうち3割弱が命中もしくは有効な損害を与え、米軍を震え上がらせたのである。

訓練を受けていた特操生(特別操縦見習士官)が全員、格納庫に集められた。「戦局打開のために、特別攻撃を実施する作戦が計画されている。これから各人の特殊任務に対する決断をとりまとめるので、配布した紙に階級、姓名を記入し、所信欄に丸を付けて夕食までに提出すること」

左は父の琢郎、右は仲の良かった戦友、松海孝雄。この後、2人の運命は大きく変わってしまう(『生きのこる 陸軍特攻飛行隊のリアル』より)

配られた紙には、

・希望する

・希望せず

・熱望する

とあった。解散になったが、一同は呆然と立ち尽くしていた。特殊任務という重要なことを言われたが、どう重要なのか、理解できないでいた。

「どう、理解したらいいんだろう」。松海(まつみ:琢郎と同じ特攻隊に所属し、仲の良かった戦友)がおそるおそる琢郎にきくのだが、琢郎も返事のしようがない。

「これは爆弾を積んだまま、敵に突っ込んでいくことじゃないのか」

誰かが叫んだ。兵舎の中がざわめいた。やがて、重苦しい沈黙が兵舎の中に満ちた。

敵艦船へ体当たり攻撃

と号作戦 上田陸軍飛行場 昭和20年1月

昭和20年1月19日、陸海軍大本営は天皇に作戦計画大綱を奏上し、全軍特攻を行う旨を説明した。ついで、1月29日陸軍中央部は「と号部隊仮編成要領」を発令、天皇の命令で戦闘する「戦闘部隊」とは別に、志願によって戦闘に参加する「特攻部隊」が編制されるようになった。「と号」とは、敵艦船への必中必殺の体当たり攻撃である。

そして、2月6日参謀本部は「と号要員学術科教育課程」を示達し、特攻攻撃要員の育成に努め始める。

こうして、2月に入ると、上田飛行場でも特攻隊要員の訓練が始まった。訓練に来る特攻隊要員は、たいていはどこかの教育隊から十数名がやって来て、2週間ほど訓練して、いずこかへ去って行った。

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