特攻隊「と号」の教育係を命じられた下士官の覚悟 覚悟を決めよ!自分は必ずお前達の後に行く
訓練生の後ろに必ず遊佐が同乗した。それは並大抵の神経では務まらない。真っ暗な空間では自分がどんな姿勢にあるのかさえはっきりしない。そんな不安定な状態で計器を読み、目標を確認して決まった角度で降下し、地上に追突する寸前で機首をあげるのである。
いずれも自分で操縦していれば、なんとでもできるが、操縦歴の浅い訓練生の操縦に身を任せるのである。ほとんどの助教が、訓練が続くにしたがってイライラが募り、大声を出してしまうのである。
そんな中でも遊佐は決して怒鳴りもせず、丁寧に状況に応じた指導を繰り返していた。それは、後部座席に同乗した以上、自分の運命を訓練生に委ねてしまっていたからであった。訓練生の操縦の誤りで死んでしまうことになれば、それは致し方ないこと、と覚悟を決めていたのである。
そんな遊佐であったが、機上で一度だけ大きな声を出したことがあった。それは真っ暗な空中で訓練生がおびえて、どうしても降下に踏み切れないでいた時のことであった。
「覚悟を決めよ! 覚悟を決めればそれが自信になる。自分は必ずお前達の後に行く。お前達だけを行かせない!」
4月中旬になって、いよいよ知覧に行く日が決まった。沖縄航空作戦の第四次航空総攻撃に参加するのである。
基地内は異様に静かであった。格納庫の中では何人かの将校や兵隊が並んでいた。すすり泣く女の声が聞こえる。宮城県から来ている昭和10年入隊の大場の妻だという。
他に幹部候補生の牟田、特操一期生の牛渡、昭和11年入隊の松田、少年飛行兵十期の難波が直立不動の姿勢をとっている。上田分教所の幹部達と向かい合い、長机を挟んで別れの杯を交わした。遊佐は1人ひとりと手を握りうなずき合った。
「お前達だけを行かせない。必ず、後に続く」
最後に穏やかに言って大きくうなずいた。
沖縄洋上に散る
その夜、遊佐准尉は家に帰って風呂を浴び、食卓についた。昼夜逆の生活が続いたので久しぶりの帰宅であった。身重の若い妻がこまめに給仕をしてくれる。
「今日、旅立って行ったよ。隊員の1人は妻帯者だったようだ。妻帯者は滅多にと号にはならないのに。どんな事情があったのか」
遊佐は昼間の光景を思い出して、独り言のようにつぶやいた。「格納庫の片隅でいつまでもすすり泣いていたよ」。
「死別するのが判っているのだから、連れて行って欲しかったのでしょう。その方は……」
妻がぽつりと言った。その言葉が遊佐の胸に深くしみこんでいった。
その後も特攻攻撃要員が、いずこからともなくやって来た。その都度、遊佐が指導して訓練を繰り返し、やがて特攻部隊として編制された部隊へ帰って行った。
5月に入って上田飛行場からも5人の特攻隊員が知覧に向けて飛び立っていった。上田から出立に際して壮行会を開き、別れの杯を交わした特攻隊は合わせて2つであったが、上田教育隊付で訓練した少年飛行兵十三期だけでも10人を超える人数が特攻で散華した。
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