振り返ると1989年は、マツダの国内販売戦略においてターニングポイントとなる年だった。
ユーノスに加え、コンパクトカーやイタリアのランチア車を扱う「オートザム」を設立。国内販売は、従来の「マツダ」、「マツダオート」フォードを扱う「オートラマ」の3チャネル体制から一気に5チャネル体制へと拡大し国内100万台を目指した。時はバブルの絶頂期、販売チャネルを増やせば販売店も増えて市場での存在感が増し、販売台数も増えると考えたのである。
1991年にはマツダオートを衣替えして、スペシャルティ・カーを中心に扱う「アンフィニ」も立ち上げた。フランス語で「無限」を意味するアンフィニへの移行に伴い、「サバンナRX-7」はモデルチェンジを経て「アンフィニRX-7」へ、「センティア」は「アンフィニMS-9」へと車名が変更された。
ご承知の通り、マツダの挑戦は失敗した。
その名は消えたが、数多くの名車を生んだ
ユーノスは、スタートからたった7年、1996年にアンフィニと統合されて「マツダアンフィニ」となり、その名は消えてしまった(2000年代半ばには、アンフィニマツダも専売車種がなくなった。今ではマツダの販売店は原則、マツダに一本化されている)。
3年連続最終赤字という経営危機に陥り、フォードからの出資比率増とフォード出身トップを受け入れたすぐのことだった。いいクルマを作り、販売チャネルも一気に拡大した。バブル期にルンルン気分で計画したアイデアが、ようやく形になって「さぁやるぜ!」と思った矢先にバブルが崩壊した。
1990年代に日本メーカーから数多くの魅力的な車が輩出されたのは、直前のバブル経済の影響が大きかった。ロードスター(誕生は1989年)、ユーノス・コスモ、ユーノス500、アンフィニRX-7(FD RX-7)と企業規模からすれば考えられないほどの名車を生み出したマツダは1990年代前半の主役だった。