「となりのトトロ」誕生秘話とジブリ苦闘の歴史 公開を反対され、スタッフ確保に奔走もした
この水面下の交渉を踏まえ、佐藤亮一社長が徳間康快社長へ共同配給を呼びかけるための電話を直接掛けた。この“ホットライン”により、新潮社と徳間書店という2つの出版社が手を組むという異例のプロジェクトが、具体的にGOサインとなり、この2本立ての企画がスタートすることになった。
しかし今度は配給サイドで問題が起きた。徳間書店は前2作と同様、東映での配給を考えていたが、東映が「社風に合わない」ということで、2本の上映を断ったのだ。そこで徳間社長は東宝と直談判し、1988年4月の公開を取り付けたという。
また、スタジオをあずかる原徹がこの2本立てに厳しい見解を示した。原の意見は「日本の長編アニメーションの礎を作った東映動画でさえ、同時に2本の長編を制作したことはなかった。リスクが大きすぎる」というものだった。この企画のリスクの大きさについて、鈴木はいくつかのインタビューの中で「この2本でジブリが最後になってもかまわないというアナーキーな気持ちだった」と当時の心境を語っている。なお鈴木は、1986年冬より、『アニメージュ』の編集長に就任した。
スタジオ内に山積する“問題”
企画は決まったものの、制作面での課題はまだまだ無数にあった。
まず具体的に問題になったことの1つは、作業のスペースだ。2作品を並行してつくるとなると、これまでの吉祥寺・井野ビルにあるジブリ以外にもう1つスタジオが必要となる。調べたところ、井野ビルからわずか50メートル先のビルに部屋が空いていることがわかった。
そこでさっそくこの一室が新スタジオとして契約された。ただし入居可能となるのが4月のため、まずは「火垂る」班が入ることになった井野ビルのスタジオの一角に、「トトロ準備室」が用意された。
もう1つの問題はスタッフ編成だった。映画を2本制作するとなれば、スタッフもこれまでの倍必要になる。さらに高畑、宮﨑両監督とも、自作に参加してほしいスタッフが重なることもあった。
中でもアニメーターの近藤喜文は、両監督から参加を要請されることになった。近藤は、Aプロダクション、日本アニメーション、テレコム・アニメーションフィルムといったスタジオで、高畑、宮﨑とともに仕事をし、高畑の『赤毛のアン』、あるいは宮﨑の『名探偵ホームズ』で、それぞれキャラクターデザインと作画監督を担当してきた。両監督からの信頼も厚かった近藤だが、最終的に『火垂るの墓』に参加することとなった。