JR上野駅、途中駅になった「北の玄関口」の存在感 夜汽車発着でにぎわった昔、今は新駅舎で注目
今年2023年、上野駅は開業140年を迎える。日本鉄道(現在の東北本線や常磐線などを開業した明治時代の私鉄)のターミナル駅として誕生した上野駅は、同鉄道が国有化された後も引き続きターミナル駅の役割を担った。
1883年、日本鉄道が上野駅―熊谷駅間を仮開業。起点になった上野駅は当初計画されていなかった。同鉄道の萌芽ともいえる計画を最初に提案したのはお雇い外国人のジョセフ・ユーリー・クロフォードだったが、クロフォードは路線調査の結果から東京側の起点は小名木川(現・東京都江東区)付近に定め、そこから千住を経て熊谷―深谷―本庄を経由して高崎や前橋を目指すことを起案していた。
上野にターミナルを置いた理由
クロフォード案は立ち消えたが、政府首脳の岩倉具視は華族に呼びかけて日本鉄道を設立。1881年に川口付近から建設を開始した。中途半端な位置から建設が始まったのは、何よりも用地買収が容易だったことが理由だ。皮肉なことに、当初は工事を開始した川口に駅を開設する予定はなく、川口町(現・川口)駅が開業したのは、上野駅―熊谷駅間の仮開業を開始してから27年後のことだった。
線路は川口から北へと建設が進む一方で、東京側に開設するターミナル駅は決まらずにいた。日本鉄道の首脳は、官営鉄道の新橋駅をターミナルに上野を経て川口に至るルート案と、新橋駅―横浜駅の間にある品川駅から線路を分岐させて川口に至るルートの2案を検討。後者は官営鉄道と接続する観点から政府、とくに後に鉄道の父と呼ばれる工部省(現・国土交通省)の鉄道局長だった井上勝から賛意を得ている。
しかし、後者のルートは東京の西側を迂回するので工期が長引くという欠点があり、開業後も都心部までの所要時間が長くなるというハンデを抱える。そうした理由から日本鉄道首脳は前者のルート案を修正し、上野にターミナル駅を定めた。
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