JR上野駅、途中駅になった「北の玄関口」の存在感 夜汽車発着でにぎわった昔、今は新駅舎で注目

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上野にターミナル駅を設置することが決まり、日本鉄道は急ピッチで川口から南への線路建設を進めた。しかし、工事着手が遅れた影響から1883年の開業時に駅舎完成は間に合わず、荷物取扱所を仮駅舎として使用した。

仮駅舎ではあるものの、上野駅には10両編成の列車が停車できるほど長いホームが設けられた。また、行き止まり式の線路ではあったものの線路に並行して駅舎が配置されたために、新橋駅方面への延伸も可能な構造になっていた。

上野駅の本駅舎は、1885年に完成する。設計した三村周は工部省の技術者で、後に独立して三村工場(現・日本信号の前身の1つ)という鉄道信号の製造工場を立ち上げている。三村は鉄道技術者を養成するために開校した工技生養成所でも学び、工部省でも鉄道技術者として活躍したエリート官僚だった。

官僚の身でありながら、三村は日本鉄道という私鉄に出向して、駅舎のデザインを手がけた。上野駅の本駅舎が赤レンガを用いた洋風のデザインになったのは、明治新政府が西洋化を急いでいたことの影響を大きく受けている。

当時は服装から建築物にいたるまで、西洋を模倣した。とくに庁舎や駅舎、病院といった公共性の強い巨大建築物は、西洋的な外観が求められた。それは、多くの人が目にする建物を西洋風で造ることで、日本が世界の一等国になったと国際的にアピールできるという理由があった。そのため、三村も政府の意向をくんで上野駅舎を洋風のレンガ造でデザインした。

国の手厚い保護を受けた日本鉄道

上野駅は寛永寺の境内地に立地しているが、これは政府が寛永寺の一画を官有地として所有し、その敷地に加えて隣接する区議会議事堂跡地と小学校跡地も駅用地として提供されたためだ。

駅の設計に優秀な官僚が派遣され、用地についても便宜を受けていることからも、日本鉄道が政府から手厚い保護を受けていたことがうかがえる。純粋な私鉄ではなく、半官半民の鉄道会社と言われるゆえんだ。政府からの手厚い保護は日本鉄道にとって大きなアドバンテージになるが、政府の指示に従わなければならないというジレンマも抱えることになる。

仮開業ながら上野にターミナル駅を構えた日本鉄道は、都心進出を果たしたことに満足し、政府と約束した新橋駅―横浜駅の間にある品川駅から線路を分岐させて川口に至るルートの建設を進めなかった。

日本鉄道に対し、政府は早急に同区間を建設するように要求する。特に、井上は同鉄道の豹変に露骨に不快感を示した。なぜなら、同鉄道が官営鉄道と接続しなければ、鉄道の物資輸送という機能を十分に果たすことができないからだ。

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