JR上野駅、途中駅になった「北の玄関口」の存在感 夜汽車発着でにぎわった昔、今は新駅舎で注目
上野駅は翌日から始まった震災救護においても北関東・東北各県が配送する支援物資の集配拠点になるなど、その結びつきは強かった。
そして、震災によって壊滅した上野駅は、駅の再建と同時に大改良に着手。同時期には東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線の一部)が浅草駅―上野駅間で地下鉄の建設計画を進めていたこともあり、その影響を受けて上野駅の再建計画は何度も練り直された。駅舎再建計画では6階建という駅舎を高層化する案も出たが、震災後の緊縮財政から幻に終わった。
最終的に、上野駅の改良は隣接していた操車場を尾久へ、機関庫の一部を田端へと移すことで用地を捻出し、さらに上野公園側の崖中腹に線路を移設することで高架線の貫通式ホームと地上線の頭瑞式ホームが整備された。
新しい上野駅の完成により、それまで地上線だった上野駅―東京駅間は高架線へと切り替えられた。これにより1925年から山手線が環状運転を開始。そのほか、東北本線と東海道本線の直通運転が検討されるようになる。両線の乗り入れは戦後に一部の列車で行われており、その後2015年に上野東京ラインとして実現したが、当時は直通しても需要がないという理由で進まなかった。
集団就職や帰省客でにぎわった戦後
再建された上野駅は、戦災では駅舎の焼失を免れている。駅周辺は焼け野原になったにもかかわらず駅舎は無事で、そのために上野駅は戦地から故郷へと戻る復員列車や地方の疎開先から東京へと戻る引揚列車、千葉や茨城といった東京近郊の農家へ食糧を買い出しに行く人々、逆に売りに来る行商人たちでごった返した。
それは上野の街ににぎわいをもたらすと同時に、戦災孤児や傷痍軍人が集まる場所になっていった。上野駅から御徒町駅の高架下には闇市が生まれ、それは歳月を経て戦争が遠い時代の記憶になっても形を変えながら独特な商店街として存在感を発揮した。
戦後の上野駅は正月・盆といったシーズンに帰省客があふれるようになる。帰省客に応対するべく、国鉄は1959年から駅前広場にテントを設営して、旅客の安全を確保。駅前広場では待ち時間に同郷者との酒盛りが始まり、お国言葉が飛び交うといった独特の光景が広がった。
高度成長期にさしかかると、上野駅は集団就職列車で上京する少年少女たちであふれた。集団就職列車は上野駅だけの話ではなく、東京駅・新宿駅、それどころか大阪をはじめ大都市で運行されたが、1964年に発売された井沢八郎「あゝ上野駅」が大ヒットしたことで、上野駅のイメージが強くなった。
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