明治日本の近代化は「資源エネルギー戦略」の賜物 明治と昭和の明暗を分けた基幹エネルギー政策
ペリー来航とエネルギー戦略の関係
日本の歴史において、1853年のペリー来航はよく知られています。ペリーが江戸幕府と結んだ日米和親条約は、1854年に締結されましたが、下田と函館が開港され、日本の鎖国を終わらせた歴史的に重要な条約です。
ペリー来航の背景には、実はエネルギーの確保という目的がありました。ペリーが突きつけてきた3つの要求を見ると、それがわかります。1つ目が、日米間の親睦、貿易の促進、2つ目が、船が遭難して日本に流れ着いた際の船員の生命、財産の保護、3つ目が、アメリカの商船、捕鯨船への石炭、薪、水、食料の補給のために港を開港することです。
捕鯨船への物資を補給するために開港してほしいとのことですが、なぜ鯨だったのでしょうか。このような要求の裏には、アメリカがエネルギーとして鯨油を必要としていたことが関係しています。当時のアメリカは、産業革命が進行して、機械を1日中動かす工場が増えていました。夜間に仕事をするためには、照明用のエネルギーとして鯨油が必要だったということです。さらに、鯨油は機械の潤滑油、ろうそくや石鹸にも使われました。
このように、アメリカは当時から、エネルギー確保のために世界を駆けめぐっていたということがわかります。日本の歴史が大きく変わった事件の背景には、産業革命で成長するアメリカのエネルギー確保というねらいがあったのです。
また、捕鯨船に対して、石炭の補給を要求されたことが、日本のエネルギー戦略に大きな影響を与えます。函館での石炭の補給のため、北海道白糠町釧路炭田で、それまでの露天掘りとは異なる日本初の坑内掘炭鉱が行われ、その後の日本全体の石炭生産拡大のきっかけになりました。このように、ペリー来航は日本のエネルギー戦略にも深く関わっていたのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら