明治日本の近代化は「資源エネルギー戦略」の賜物 明治と昭和の明暗を分けた基幹エネルギー政策
石炭の消費は、江戸時代末期から、筑豊や唐津などで採掘された石炭を使用することから始まっています。さらに、1854年に日米和親条約が締結され、函館での石炭の補給を可能とするために、北海道での炭鉱開発などが行われるようになりました。
明治時代に入ってからは、鉄道が開通したことによって石炭の生産は全国に広がり、上海や香港など海外への輸出も行われました。1888年(明治21年)に200万トンであった石炭の国内生産量は、1902年(明治35年)には1000万トンに達しています。
ちょうどこの時期の1901年に、官営八幡製鉄所の操業が開始され、それ以降、石炭をエネルギー源として、軽工業のみならず製鉄、造船などが発展しました。つまり、石炭を自給できたことが、産業を発展させ、輸出による外貨の獲得にも貢献したのです。このように、日本の近代化は、石炭によって支えられていました。
一般的によく言われている、「日本は資源がない島国だが、勤勉な国民が頑張ったから成功できた」というのは明治においては誤りであり、明治維新以降の日本の近代化は、石炭という基幹エネルギーを自給していたからこそ可能でした。このことは、より広く認識される必要があると思います。
石炭から石油へのエネルギーシフト
1904~1905年の日露戦争において、日本の艦船がロシアのバルチック艦隊を破りましたが、当時の艦船は石炭を動力源に運航されていました。しかし、明治から大正になり、1914~1918年の第1次世界大戦中には、日本の海軍の燃料が石炭から重油にシフトし始めます。
大正初期、秋田や新潟で採れる国内原油の生産量は年間約40万キロリットルであり、国内の需要をまかなえていました。しかし、次第に民間では農業用の発動機、漁船の動力、工場の動力などにも石油が使われるようになり、家庭でも暖房用の石油ストーブ、炊事用の石油コンロなど多くの用途に使われ、自動車も普及し始めます。
これによって、民間の石油消費量は年間55万~60万キロリットルに増加し、国産原油だけではまかないきれなくなり、石油の輸入が開始されました。その結果、1925年からは、輸入が上回るようになってしまいます。その後も近代化を進めるにつれて、原油の輸入量は右肩上がりに増えていきました。
資源について神様というのは実に不平等です。日本の近代化という歴史においては、神様は石炭を日本に与えましたが、石油は与えてくれませんでした。
第2次世界大戦では、戦闘機が使われるようになりましたが、当然のことながら、戦闘機は石炭ではなく、石油が必要となります。石油の確保は不可欠でしたが、大正時代以降、日本は石油の自給ができなくなりました。やがて日本は、石油輸入の90%をアメリカに依存するようになります。
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