明治日本の近代化は「資源エネルギー戦略」の賜物 明治と昭和の明暗を分けた基幹エネルギー政策
1937年の日華事変を経て、アメリカは、1939年7月には「日米通商航海条約」の破棄を通告し、石油の対日輸出が禁止されます。石油の調達を急ぐ日本は、ドイツに敗れたオランダが宗主国であったインドネシアや、ベトナム南部での石油獲得を試みましたが、1941年、日本に対する石油禁輸が発表されました。
そして太平洋戦争に突入し、1945年に入ると、インドネシアのパレンバンなどの主要占領油田、製油所の石油生産量は空襲により激減します。さらに日本のタンカーが、アメリカ軍の潜水艦に破壊され、石油の輸送能力も激減しました。
日本の海軍が海上護衛総司令部を設立したのは、開戦から2年後の1943年11月ですが、シーレーンの防衛力は欠如していたと考えられます。追い打ちをかけるように、日本本土の空襲でも、石油関係施設が集中的に爆撃されました。
このように、極めて重要な石油の輸入を遠方のアメリカ一国に90%依存し、近くの東南アジアで石油確保ができていなかったことや、そのアメリカと敵対関係になったことが、命取りになったのです。したがって、太平洋戦争は、石油が自給できていないことが決定的な痛手となった戦争、という見方が可能でしょう。
ここで気を付けていただきたいのは、エネルギー戦略がよくできていれば戦争に負けなかっただろう。だからエネルギー戦略は重要ということを説明しているのではありません。戦争は決して正当化されるものではありません。
日本は明治から大正、昭和にかけて、石炭から石油へのエネルギー・トランスフォーメーション(EX)に失敗し、飛行機が中心の世界に対応できなかったという事実が残っています。初めて燃料を総合的に総括する商工省燃料局ができたのも遅く、1937年になってからでした。日本は、エネルギー戦略について、世界の趨勢の把握に遅れ、それを先回りして行動をとらなかったために、不幸なことになったとも言えます。
エネルギー戦略では中国が先行
現在の日本も、エネルギーの自給ができていません。アメリカはシェール革命を実現し、エネルギー輸入国から輸出国に転じました。日本同様、エネルギー輸入国の中国は、エネルギー戦略で着実に結果を出しています。アフリカの石油利権確保、中央アジア、ミャンマー、ロシアからのパイプラインによる天然ガスの確保に加え、サウジアラビアとも戦略的パートナーシップを結んでいます。LNG、原子力発電、再生可能エネルギーも加速度的に推進されています。化石燃料や再エネに関しても自国の企業が育っています。
中国に比べると、日本の現状は明るくありません。日本が置かれた北東アジアの国際情勢は、日本のエネルギー戦略を難しいものにしています。ミサイル開発を進める北朝鮮や、ロシア、中国など、日本は友好関係にあるとは言えない国々に周りを囲まれています。
世界から見ると日本は、隣国とつながるパイプラインや送電線がない国で、エネルギー安全保障としては危惧すべきと言わざるをえません。一方で、日本はLNG受入基地と原子力発電所のインフラが充実した国であり、また今後は、再生エネルギーへの投資も増加すると思われます。
日本は、国家の独立、安定を確保しつつ、経済成長と地球温暖化対策を同時達成するという課題をどうクリアしていくのか。極めて難易度の高い日本のエネルギー戦略に世界も大きな関心を寄せています。
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