企業が本当は「社会正義」に何の関心もない理由 SDGsバッジは「意識高い系」の免罪符にならない

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他方、リバタリアン的な立場をとる者から見れば、国家によってこそ社会正義が実現されるというローズの主張には何の根拠もない。官僚主義、先例主義、利権構造、党利党略等によって蝕まれた鈍重な巨大機構たる現代民主主義国家よりも、即断即決で柔軟な判断を下すことのできる企業のほうが、国家よりもよほど有効に社会正義の実現に貢献できるのだ、と。

しかし、左右どちらの側からの批判も十分ではないのだ。というのも、ローズが描き出している最も重要な事実は、われわれの時代が、国家が中立を装った資本家階級の道具である時代も、資本家階級が罪滅ぼしを図ろうとする時代も、もう飛び出してしまった、ということではないだろうか。

租税回避により国家を無力化させた多国籍企業は、国家から社会正義の担い手としてのステイタスを奪い尽くした。ゆえに、そもそも国家が中立公正な社会正義を実現する主体たりうるという期待感が著しく減退しているのである。今日の日本社会に見られる極端なまでの政治的無関心はその表れだ。

マルクスの言う「国家=資本家の事務委員会」が「資本のもとへの国家の形式的包摂」であったとすれば、国家が正義を担いうるものだという人々の期待の消滅は、国家からの説明責任を解除し、国家権力と資本家との癒着に一線を超えさせる。国家は、中立性の外皮を投げ捨てて、資本の欲求のあられもない体現者になる。そのとき「包摂」は「実質的包摂」に達する。この日本で第2次安倍政権成立(2012年)以降見せつけられてきたのは、まさにそうした光景ではなかったか。

何が社会正義であるかを決定する権限を握った資本家

かつて、資本家の罪滅ぼしが悲劇的かつ皮肉な結末をもたらすこともあった。1921年、安田財閥の祖、安田善次郎は31歳の青年、朝日平吾によって刺殺された。当時有名になった朝日の斬奸状には、安田が富豪にふさわしい社会的責務を果たさないがゆえに天誅を下す旨が書かれていた。皮肉だというのは、東京大学安田講堂にその名をとどめているように、安田は数々の寄付を行っていたのだが、名声目当てと謗られることを避けるためにそれを匿名で行っていたためだ。仮に安田が寄付を顕名で行っていたならば、殺害されることはなかったかもしれない。

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