企業が本当は「社会正義」に何の関心もない理由 SDGsバッジは「意識高い系」の免罪符にならない

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つまり、企業は社会正義の実現に対して真の関心など持っていない。それに取り組んでいるポーズをとることが、企業のイメージを高め、さらなる利潤の獲得につながりうる限りにおいて、コミットしているにすぎない、と。搾取と暴利によって肥え太った現代の多国籍企業は、格差拡大による社会崩壊の危機をもたらした張本人であり、自らの手で危機をもたらしておきながら、今度は真摯な救世主として現れるべく自己演出しているのだ、と。

著者がとりわけ強調するのは、いわば独占資本家による倫理の買収である。すなわち、グローバル化のなかで国家の徴税機能が低下し、国民に対して行政サービスを提供することの困難が増大する一方で、多国籍企業、特にその経営層に集積する富は歴史上類を見ないほど膨大なものとなり、これらいかなる民主的手続きを経て選出されたわけでもない人々が、何が現代の社会正義上の重要問題であるかを決定し、どのような方向性で解決されるべきかを指示する実質的権限を持つことになる、ということだ。

マルクスの「包摂」概念

さて、ここで参照したいのが、マルクスが『資本論』において展開した「包摂」の概念である。筆者は、本年2月に刊行した『マルクス――生を呑み込む資本主義』(講談社現代新書)において、マルクスの生涯と学説をたどりつつ、特に「包摂」の概念に着目した。マルクスの言う「包摂」は、社会学で用いられるinclusionではなく、subsumptionである。そこには、何かを「温かく包み込む」のではなく、「包み込んで窒息させる」というニュアンスがある。

この概念は、「労働の資本のもとへの包摂」という言い方で元々は使われた。すなわち、共同体で自給自足的に働き生計を立てていた人々が、資本主義の発展により、賃金労働者に転身するときにまずは起こる。かつては、自らの生産手段を用いて自己裁量によって働いていた人々が、資本家に雇われるようになり、資本家の所有する生産手段を用いて資本家の指図に従って働くようになる、ということだ。

マルクスが指摘した重要な点は、「包摂」の段階は無数に存在する、ということだった。すなわち、資本家の命に従うといっても、労働の内容が職人的なものであれば、労働者の自己裁量の余地は多く、「包摂」の度合いは低い。ゆえにマルクスは、賃労働に移行することを「形式的包摂」と呼んだ。

だが、「包摂」は必ず深化する。資本は、生産力の向上を目指して、高度な分業や機械を導入することによって、熟練労働を単純労働に置き換えていこうとするからだ。その度合いにも無数の段階があるのだが、きわめて高度な段階として、流れ作業のラインの動きに合わせて単調な動きを労働者が強いられる働き方を思い浮かべてみればよいだろう。それは、人間の労働が機械の一部に組み込まれてしまった状況である。このように高度化した「包摂」を、マルクスは「実質的包摂」と呼んだ。

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