企業が本当は「社会正義」に何の関心もない理由 SDGsバッジは「意識高い系」の免罪符にならない
21世紀となったいま、マルクスの「包摂」概念は、その適用範囲をはるかに拡張して社会分析に用いることができる。マルクス自身が目撃したのは、生産の現場において労働者が資本の論理に強制的に巻き込まれてゆく光景であったが、20~21世紀になって到来したのは、「包摂」が生産の現場を乗り越え、社会生活の全般に広がってゆく状況だった。
労働者は、かつてよりも高給を与えられるようになったことと引き換えに、資本が企む生産力の向上に反抗するのではなく、積極的に協力するようになった。そしてやがて、余暇時間をも「スキルアップ」や「自己啓発」に費やすことが当然視されるようになってゆく。言い換えれば、「自己研鑽を積むこと」と「よりよく資本に奉仕すること」が同一になってゆく。「意識高い系」という言葉に揶揄の風味が混じっているのは、どれほど社畜化してしまった現代人にも五分の魂が残っており、それを失った者どもに対する侮蔑の感情を保持しているからだ。
マルクスは「労働の資本のもとへの包摂」には無数の段階がある、したがってその深化に限りはないと予言したが、確かに、生産的労働の過程を超えて「包摂」は進み、やがてそれは、「生」一般、すなわち内に向かっては人間の価値観や思考、外に向かっては生態系全体の「包摂」へと進みゆく。われわれの内なる自然、言い換えれば、人間性そのものが資本の価値増殖運動にとって都合のよいものへと作り変えられる一方、外なる自然、すなわち自然環境も同じく価値増殖のために無制限の搾取を受けつくり変えられる。グローバルな環境危機とはもちろん、その帰結である。
「包摂」の新段階としてのWoke Capitalism
以上の観点から見たとき、意識高い系資本主義の隆盛とは、「包摂」の新段階を画すものであるように見えてくる。それはどのような意味においてか。
著者、ローズは社会正義を実現する主体の役割から国家が解任されることを重く問題視しているが、この論点は左右両翼から批判を受ける可能性がある。
まず、そもそも国家は社会正義を実現するよう運命づけられているのか? 「近代国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない」(『共産党宣言』)と200年近くも前に喝破していたのは、マルクスであった。つまり、資本主義社会における国家とは法秩序を究極的には暴力によって担保するものであり、資本家階級の道具にほかならない、と。マルクスから見れば、国家が実現するとされている正義とは、中立性を装ってはいるが実質的には資本家階級にとっての正義にすぎない。
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