ドラッカーが「最高の未来学者」と評される所以 チャーチル首相も絶賛した「歴史を読む力」
小島:彼がデビュー作の『「経済人」の終わり』を書き始めたのは20代の半ばで、28歳ぐらいで書き終え、出版されたのは29歳から30歳にかかる頃ですが、そのときに絶賛したのは、あのウィンストン・チャーチルでした。チャーチルはその翌年に首相になってナチに戦いを挑んだのですが、同時に毎年、士官学校卒業生にドラッカー青年の書いた『「経済人」の終わり』を、「これは人生の本だ」と言って全員に配ったというんですね。
ドラッカーが亡くなったのは2005年ですが、2009年に『「経済人」の終わり』は増刷になっているんです。いまだに読まれている。この本は深い思索があるため、読み応えがあります。
本当に社会を洞察し、思索する、偉大な思索家だという感じがありますね。今、世界では権威主義が台頭し、全体主義的な組織の問題、あるいは民主主義の限界が議論されていますが、この本が非常に参考になるのではないかと、今、読んでもそのような実感があります。
「現在」を徹底的に知る姿勢
白川:ドラッカーは非常に多面的な考察をした人ですが、私がドラッカーから学んだことを整理すると、大きく3つあります。1つは、現在起きていることを観察するその姿勢です。社会や人間、組織などに対する同時代人としての観察の深さです。みんな将来何が起こるか、口角泡を飛ばして議論するわけですが、彼はそうではなく、現在起きていることを徹底的に考察する。それが結果として未来を予測することにつながる。そういう姿勢ですね。
現在を観察するその姿勢。これ、実は私の関わってきた仕事、たとえば金融政策の仕事もそうですけれども、経済予測よりはるかに難しいのは、今何が起きているかを知ることです。実はこれがわからないわけです。現在を知ることの重要性。これが1つです。
2つめが、政治、体制、イデオロギーといったものではなく、社会を観察する姿勢です。ドラッカーはどこかに「社会現象には社会そのものの分析が必要である」という言葉を書いていました。これを、経済学者やエコノミストと対比すると、彼等にとっては経済が分析の中心にあるわけで、社会というのはなんとなくファジーな概念のように映る。それで結果的に社会の動きを無視する、ないし軽視する。少なからぬ経済学者は経済学というのは社会科学の女王と考えており、社会学などは非常にファジーな学問だという反応になりやすい。
しかし、狭い意味での経済の問題に絞って考えても、社会がどのように反応するかによって経済のパフォーマンスも変わってくる。だから、「経済vs社会」ではなく、経済を規定するものとして社会がある以上、社会を観察する必要がある。社会を理解せずして経済は理解できない。その社会をよく観察しないといけないという、この姿勢です。