たとえば、お寺で健康祈願の祈禱をしてもらった人は、「もう何をやっても病気にならない」と考えるだろうか。合格祈願をして境内に絵馬を掛けた受験生は、「これで勉強しなくても大丈夫」と思うだろうか。
むしろ逆だろう。健康祈願をした人は以前に増して健康に留意し、合格祈願をした受験生はますます勉学に励むに違いない。交通安全祈願は、より一層安全運転をするという決意表明なのではないか。
つまり、お寺での祈願は、仏を前に自らの行動を振り返るとともに、今後さらなる精進をするという「約束」なのである。これは結婚式と同じ意味を持つ。神仏を前に永遠の愛を誓うことで、2人の関係が長続きするよう努力することを約束するのである。経済学ではこれを「コミットメント」という。
さらに重要なことは、こうした祈願が個人の「ご利益」だけに留まらない点だ。祈願のあと一層の安全運転を心がければ、交通事故を防ぐことができる。健康に留意すれば、生活習慣病を回避し、国民医療費の節約になる。
そして、商売繁盛の祈願をして仕事に励めば、社会はより豊かになるだろう。祈願のコミットメントは、立派な社会貢献なのである。これはまさしく「仏の見えざる手」のなせる業といえるだろう。祈願は大乗仏教の提唱する利他行の実践といえる。
次代を担う僧侶たちへ
人生には成人、就職、結婚などさまざまな節目がある。こうした節目における祈りには、コミットメント効果が期待できる。にもかかわらず、お寺が専ら葬儀にかかわっているのは何とも勿体ない話といわざるを得ない。
どの時代に生きる人間も、取り巻く環境に応じた苦しみがあり、祈りがある。日本の仏教寺院が、どこまで現代人のニーズに対して的確に対応してきたかどうかははなはだ疑問である。秘伝のタレを継ぎ足して使っている老舗料理店よろしく、親から檀家寺を受け継ぎ、同じことを同じようにやってきたところがほとんどではないだろうか。
日本の仏教寺院の命運は、次代を担う僧侶たちがどこまで現状に危機意識を持つか否かにかかっている。
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