キャッシュレス、直葬時代にお寺は生き残れるか 「葬儀だけではもったいない」お寺でできること

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こうした本来の意味を現代人がどこまで理解しているかは不明だが、近年の葬儀の簡略化傾向を見ると、「追善供養」の意味が変わってきているように思われる。

すなわち、高齢で亡くなる人が増えたために死を悼むという感情が薄れたことに加え、孤独死のように追善する人たちが存在しないケースも多くなってきているのである。

なかには生前に親族や親しい人たちとの「お別れ」を済ませている人や、遺族の懐具合を忖度して賑々しい葬儀は不要と言い残す人もいるようだ。そのため、葬儀をせず病院から火葬場に直行する「直葬」も見られるようになっている。

だが、こうした動きは「追善供養」の意義を否定するものではない。その根拠は、青森県の下北半島にある恐山菩提寺という霊場にある。当地を訪れると、供養の本来の意味を知ることができる。なぜなら、明確な動機をもった人たちがここを訪れているからだ。

おそらく、不慮の事故、自然災害、この世に生を受けることができなかった命など、さまざまな「浮かばれない死霊」に対するやりきれない思いや後ろめたさを持った人たちが、死出の旅路に困らないよう、来世で楽しく暮らせるよう、かざぐるまを地面に刺し、硬貨を置き、靴や衣類や飲食物を供えていると思われる。

硫黄臭が漂う荒涼とした地に足を踏み入れることで、参拝者は故人の霊を直接感じることができ、自らの「彷徨える心」を落ち着かせようとしているのではないだろうか。

そうした自発的な思いがあって初めて、供養という名の祈りが成立するように思われる。そうでなければ、恐山ほど不便な場所にわざわざ足を運ぶとは思えない。テレビ番組で紹介されたことで観光客が増えたようだが、物見遊山で行く場所でないことだけは明らかだ。

祈願は立派な社会貢献

数ある仏教宗派のなかでも、浄土真宗は信者の祈願を受け付けない点に特徴がある。その理由は、「願いがかなっても満たされず、尽きない欲望のなかで迷い続けるから」とされている。

この考えは、「こだわりを捨てる」という仏教哲学に通じるが、祈願は単に「願いがかないますように」と手を合わせるだけのものではない。そこには、祈願を通じて自らの行動を律するという意味合いも含まれている。

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