筆者がこれまで保護者の方に聞いてきたお話の中には、次のようなこともありました。
「小学生の頃は習い事のたびに送り迎えを毎回し、宿題や課題もしっかりやらせるために頑張ってきました。高学年になると塾に入れる教育費を捻出するために働いたり、家計を切り詰めたりして、日々必死で子どものために頑張りました。中学生になればお弁当を毎日作り、時に子どもを励まし、時に叱り、成績に一喜一憂しながら、ずっと親は頑張り続け、自分の時間を犠牲にしてまで子どものために捧げてきたのに、『あなたはなぜそれがわかってくれないの!』と思ってしまいます」
「子育てのあり方」について考えてみよう
このような状況であれば、「私は今まで何のためにやってきたのでしょう?」という虚しい気持ちが出てくることは当然のことかもしれません。
だからといって、そのような気持ちを繰り返しているだけでは、日々心身共に消耗していくだけです。親子関係の悪化につながるかもしれません。
そこで、いったん、「子育てのあり方」について考えてみます。
「私は今まで何のためにやってきたのでしょう?」という気持ちが出てくる背景には、今まで自分がやったことに対して、リターンがあるはずという「期待」があると思います。つまり、「子育てを費用対効果として考えている」可能性があるということです。
このようなあり方を筆者は「条件付き子育て」と呼んでいます。
条件付きの子育ての場合には、次のような現象が起こります。
親の期待通りに子どもが進めばイライラは起きませんが、期待はずれだとイライラが絶えません。つまり、子どもが親の期待というハードル(条件)を越えたか、越えないかが焦点になっており、「条件を満たしたら子どもを愛す」「条件が満たされなければ愛さない」のいずれかの状態になる可能性があります。
子どもの状態を親の期待との比較で見る場合、条件付き子育てになることがあります。
では、条件付きという枠を外した子育ての場合はどうでしょうか。
これまで子どもに行ってきた数々の行為に対して、子どもからのリターンをそもそも望んでいないため、イライラという発想はなく、それよりも目の前の子どもが健やかに育ってくれていることに「感謝」していきます。もちろん、日々の生活の中で、多少のイライラもあるかもしれませんが一過性のものであり、全体としては、安定感を保っています。
つまり、子育ては親の一方的な愛情を伴った行為であって、それに対しての見返りは求めていません。
なお、いずれの場合でも、それは個人の価値観の問題なので、良い・悪いという問題にはなりません。ただ、いずれかを選択したら、その結果を受け取るというだけです。
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