「生きがい」「おひとりさま」賛美への強烈な違和感 75歳エッセイスト「生きがい考えたことない」
「生きがい」があろうとなかろうと、わたしたちは生きていくのであり、「やりがい」があろうとなかろうと、わたしたちはすることはするのである。
「あなたの生きがいはなんですか?」
当然、とくにないなあ、と答えていいのである。どうせ訊くほうも訊きっぱなしである。そのあとのことはなにも考えちゃいないのだ。
まあだれに訊かれることもないだろう。それでも万一、訊かれたときには一言、ないね、といえばいい。「ねえよ、そんなもん」と、なにかで答えていたおじいさんを見たような気がする。こういうじいさんになりたいものだ。
自分なりの生きがいがきちんとある人はそれでいい。そんなもん聞かれるまでもない、阪神タイガースやないかい、でも、日本ハムファイターズです、でもいい。ない人は、いらんのである、そんなもん。悔しがることでもない。
「ひとり」を賛美しすぎる傾向が強くなった
日本社会ではあまりにも孤独死だの、ひとりは寂しいだのといわれすぎたため、その反動で今度は、ひとりは自由でいい、おひとりさまでけっこう、友だちなんかいなくてもいい、と「ひとり」を賛美しすぎる傾向が強くなった。
たしかに、ひとりで一番いいことは自由なことである。わたしは、自由と健康はなにものにも代えがたいと思う。
自由は、言論の自由とか職業選択の自由とか結社の自由などの大きな自由だけが自由ではない。わたしはこの75年間、そんな自由を欲したことがない。それよりも、普通になにを食べてもいい、いつ、どこに行ってもいい、いつ起きていつ寝てもいい、という日常の自由のほうがわたしには大事である。
そして自由といえば、ひとりの問題に帰する。他の人間が不自由であったり、健康を害していることも気にはなる。親愛なる者の場合はとくにそうだ。ではあるが、結局なにをするにしても、いつもつきまとうのは、自分自身の自由(と健康)の問題である。
その意味でわたしがずっと理解できないことは、犯罪を犯す者は、刑務所に入れられることをどう思っているのかということだった。
あえて自分の自由な生活を代償にしてでも、犯行をするしかなかったということか。それほど動機が強かったのか。それとも犯行することしか頭になく、ほかのことはなにも考えなかったということか。
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