稲盛和夫と共にKDDIを創った男が得た経営の神髄 「ゼロからイチ」を生み出す力が日本に必要な訳

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現・KDDI(第二電電)を立ち上げた千本倖生氏が共同創業者の稲盛和夫氏から学んだこととは?(写真:Akio Kon/Bloomberg)
NTTの前身となる電電公社から転じ、京セラ創業者の稲盛和夫氏とともに民間の電話会社「第二電電」を1984年に設立し、KDDIを育て上げた千本倖生氏。第二電電の設立当初は社員30万人の巨大企業に数人で立ち向かった。その姿は「巨象に立ち向かうアリ」とも揶揄されたが、KDDIは誰もが知る大企業となった。
裏側では何があったのか。千本氏が書き下ろした新刊『千に一つの奇跡をつかめ!』から第二電電設立前後の経緯を綴った章を抜粋、一部再編集して3回で連載。第2回をお届けする。
第1回:電電公社を辞めKDDIを創った男に見えていた本質(4月15日配信)

ベンチャー精神を目覚めさせたルームメイトの一言

そもそも私自身がベンチャー精神の大切さに目覚め、アントレプレナーシップの萌芽ともなった最初の大きな出来事は、先に述べたとおり、電電公社に入社してすぐアメリカに留学したことでした。

電電公社に入社した私は、それなりに充実した毎日を送っていましたが、半年ほど経った頃から「このままでいいのか」という迷いが生じてきた。

そんな矢先、アメリカとの教育交流プログラムであるフルブライト留学制度の存在を知り、さほど明確な目的意識もないまま資格試験を受け、運よく合格してしまったのです。

上司に報告すると、「前例がない」という理由から、私の留学を認めるべきかが問題になりました。

もし許可が出ないのなら、私は公社を辞めるつもりでいましたが、幸い上層部に理解のある人がいて、「そんな変わり者が一人くらいいてもいいだろう」ということでOKが出たのです(こんなことからも、当時から私は組織の異端児だったことがわかります)。

そんなわけで1967年、私は晴れてフルブライトの交換留学生として、フロリダ大学の大学院へ留学。アメリカの地を初めて踏みました。

院生用の学生寮に住むことになり、二人部屋のルームメイトとも初対面の挨拶を交わした数日後、小さな〝事件〟が起きたのです。

そのルームメイトは法学部で学ぶ白人学生で、彼は私が社会人であることを知って、「サチオは日本のなんていう企業からやってきたんだ?」とさりげなく尋ねてきました。私はやや誇らしい気持ちで、「電電公社といって、日本の電気通信事業を独占する唯一最大の電話会社から来た」と答えました。

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