高田馬場とは現在の西早稲田3丁目1、2、12、14付近にあった、江戸時代の旗本の馬術の練習場だ。都営バス西早稲田バス停付近にあたる。JR高田馬場駅とは1.2km、徒歩で15分ほど離れている。そこが駅名の由来となったのは、それだけこの決闘が後の歌舞伎、講談などで大人気の素材となり、人口に膾炙していたからにほかならない。
馬場近くの水稲荷神社の参道入口には、「堀部武庸加功遺跡之碑」が建てられている。添えられている新宿区教育委員会の説明看板によると、面白いことにこの記念碑が建てられたのは、高田馬場駅開業と同じ1910年だ。
当時は、日露戦争戦勝の後の国家主義の高まりを受けて、『忠臣蔵』の再評価が行われた時代であったと言う。駅の設置と記念碑の建立の、前後の因果関係はわからないが、高田馬場の決闘が大いに称揚されていた時期であるのは違いない。
現代で言うところのアニメ作品の“聖地”と同じような感覚で高田馬場が世に知られ、その流れに乗って駅名が付き、聖地巡礼の目標として碑が建てられたと思うと、民衆の感覚は今も昔も変わらないなと微笑ましい。
神田川をまたぐ築堤と橋梁
台地を切り開いた堀割の中にある目白駅から内回り電車に乗ると、すぐ広い谷に差し掛かり視界が広がる。しかし、山手線自体はさしたる勾配にはなっておらず、築堤の上を走って高田馬場駅に到着する。その直前で渡る川が、この谷を形作った神田川だ。山手線の東側では、主にこの川に沿って豊島区と新宿区の境界が引かれている。
山手線の橋梁は、補修や周囲の建物の増加によってわかりづらくなってはいるが、今でも一部、レンガ積みの橋台が露出している。そのすぐ北側では西武新宿線が山手線の下を急カーブしつつくぐり、急勾配で神田川を渡って、JR駅と同レベルの高架となっている高田馬場駅に入る。
鉄道同士が立体交差する場合は、新しいほうが古くから走っているほうをまたぎ越すようにするのがセオリーだ。しかし西武新宿線が、現在の高田馬場駅の場所まで完成したのは1928年。山手線の築堤が高々とそびえ立っていたため、やむなく下をくぐる許可を政府から得て、少々無理に思われるような線形を取らざるをえなかった。
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