武田信玄が「信長包囲網」に賛同した説の真偽 信玄死後の中央の政治情勢はどう変わったか
信長は浅井久政・長政親子に対して、「一方ならざる遺恨深重」「悉くもって討ち果たすの条、大慶」(毛利輝元宛の信長書状)と書状に記すように、深い恨みを抱いていた。
浅井長政の10歳になる嫡男を捜索して、関ヶ原で磔(はりつけ)にしたこと、朝倉義景の母や嫡男を殺害させたことも、信長の恨みとそれを晴らしたいという、情念が渦巻いていたからこそだろう。
長政の嫡男を処刑したことを『信長公記』も、「長年のご無念を晴らされた」と記している。
敬意ではなく、日頃の恨みを晴らす行為
また、かつて信長を鉄砲で狙撃して、逃走していた杉谷善住坊(生年不詳〜1573)も、近江国で捕縛された結果、体を土中に埋められ、首だけ出されて、その首を人に鋸(のこぎり)でひかせるという方法で処刑される。そのときも「日頃のお怒りを晴らされた」(同書)とある。
そうしたことを考えると、信長による敵将の首の箔濃は、敬意ではなく、首を見せ物にし、日頃の恨みを晴らす行為だったと捉えることができよう。
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