武田信玄が「信長包囲網」に賛同した説の真偽 信玄死後の中央の政治情勢はどう変わったか

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将軍・足利義昭は、信長と手を切り、浅井・朝倉に信長打倒を命じるまでになる(元亀4年【1573年】年2月13日)。

その前年の末、義昭は信長から「十七条におよぶ意見書」を突きつけられていた。それは、義昭の怠慢や独断を責め「上様(義昭)を悪御所と庶民が呼んでいる」という厳しい内容であった。義昭の不満はかなり溜まっていたに違いない。

義昭の叛逆に対し、信長は低姿勢で臨んだ。「将軍が望まれる通りの人質と誓紙を差し出し、今後とも疎略には扱わない」(『信長公記』)と言い、将軍と和議を結ぼうとしたのだ。

ところが、義昭のほうが強気で、和議は成立しなかった。信長は元亀4年3月下旬に上洛し、義昭との和平を目指したが、義昭側は受け入れない。そこで、ついに信長は、4月に入り、洛外に放火し、上京を焼き払ったのである。

放火により、義昭は和議にいったんは応じた。だが、同年の7月には再び、信長に叛き、二条城を出て、槇島城(宇治市)で挙兵。織田軍がこれを攻めると、あっけなく降伏した。以後、義昭は京都で権力を確立すること叶わず、都から幕府は消え去った。

どんどん信長に優位な状況に

信玄の脅威、将軍・義昭の策動が消えると、信長に優位な状況が形成される。

天正元年(1573年)8月下旬には、織田軍は、越前の一乗谷にまで攻め込み、朝倉義景を自刃に追い込んでいる。

間髪入れず、信長は近江の小谷城(城主・浅井長政)も攻め、9月1日、長政は自刃する。信長を苦しめてきた浅井・朝倉は滅亡した。

ドラマにも何度も描かれてきた有名な話だが、翌年(1574年)正月、彼らの首は、岐阜における酒宴で見せ物にされた。信長は敵将の首を「箔濃(漆で固め彩色)し、折敷(お盆)の上に置き、酒のさかなとして、出された」(『信長公記』)のである。

首を箔濃にした件については、敵将への恨みの想いではなく、敬意や弔いの気持ちだったとの説もあるが、『信長公記』や信長書状を読むと、敬意などなかったと考えざるをえない。

『信長公記』には、彼らの首を「酒のさかな」だったと記しているのである。首の前で、謡などして遊び、信長はたいそう喜んでいたのだ。しかも、信長は諸将が年始の挨拶に参上し退出後、直属の馬廻衆(大将の馬の廻りに付き添い護衛や伝令などを行う)だけになったところで敵将の首を披露している。弔いや敬意の気持ちがあるならば、最初から出しているだろう。

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