武田信玄が「信長包囲網」に賛同した説の真偽 信玄死後の中央の政治情勢はどう変わったか

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信玄の西進は、自身の死により叶うことはなかった。この西進の狙いには、さまざまな説がある。従来有力とされていたのが、冒頭の「上洛戦説」だ。

ところが近年、足利義昭の信長包囲網に呼応する形で、信玄は上洛しようとしていたのではない、とする説が浸透している。「上洛戦説は、もはや成り立たなくなった」とまで言われているのだ。

足利義昭のもとでの信長包囲網の形成と、信玄がそれに賛同し上洛の意志を示していたということは、根拠となっていた文書が信玄死後のものであるとされ、根拠としては乏しいためだ。

信玄の最終目標は「信長滅亡」

ただ、信玄の最終目標が「信長滅亡」であったことは否定できないだろう。

信玄は三方ヶ原で家康を敗った数日後(12月28日)に、手を組んでいた越前の朝倉義景に対し、書状を書いていた。

書状には、三方ヶ原において合戦して、三河・遠江国の「凶徒」と岐阜の「加勢衆」(つまり、徳川・織田連合軍)1000人余りを討ち捕らえたので安心してほしいことや、噂で越前の軍勢の過半が国に引き揚げたと聞き、信長を滅ぼすときが到来したというのにそれはありえないということが記されている。信玄は信長を滅ぼすことを念頭においていたのだ。

信玄が岐阜を攻めた場合、信長は籠城するとも考えられるが、状況が危うくなれば、京都方面に逃れることも十分ありえる。となれば、信長を追って武田軍が京に迫ることもあるはずだ。

「信長滅亡」を主眼とするからには、信長軍の動きによっては、京都に向かうことも信玄の眼中にあったのではないか。

よって筆者は「上洛戦説は、もはや成り立たなくなった」とは言い切れないと考える(もちろん、家康への憤りを晴らすことや、織田との領土問題を解決させることなど、さまざまな要因も重なったためであろう)。

信玄の西進と三方ヶ原での大勝は、中央の政治情勢にも大きな影響を与えた。

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