すかいらーく発祥「ひばりが丘団地」64年経った今 古い団地とベランダはなぜ「保存」されたのか
完成した団地は、団地周辺に麦畑が多く、ひばりをよく見かけたことから、当時の田無町長が「ひばりが丘」と命名した。最初の団地竣工と同じ1959年5月には最寄りの西武池袋線の「田無町」駅を「ひばりヶ丘」駅に改称した。この改称には西武新宿線の「田無駅」と混同するという理由もあった。
ひばりが丘団地に入居した人々は当時東京郊外に建設された日本住宅公団管理の団地の例に漏れず、東京都心に通勤するホワイトカラーの中高所得者がメインだった。
そして、ひばりが丘団地での彼らの生活は「団地での生活」のイメージとして人々に届けられることとなる。そのきっかけは大きく2つある。1つは1960年に作られた映像「団地への招待」、もう1つは同じ年の9月に行われた皇太子ご夫妻(現在の上皇陛下・上皇后陛下ご夫妻)のご訪問である。
「団地への招待」は、住宅公団の団地をこれからはじめる夫妻が、先にひばりが丘団地で生活している兄夫妻の生活を見学し、団地での生活を学ぶという設定の映像作品だ。いま、映像を見るとずいぶん狭い空間に家財を詰め込んでいる印象を受ける。
しかし、当時はこれでも広い住居であった。そして、映像にでてくる言葉の端々からは、鉄筋コンクリート造りで鍵やステンレスのシンクがついており、利便性も十分な団地での生活は、最先端かつ憧れであったことがうかがえる。
皇太子ご夫妻(当時)のご訪問は、アメリカご訪問前に日本のことを勉強したいというご希望からのものであった。
ご夫妻はプリンス自動車工業(現在の日産)の車でやってきて、管理事務所を訪問、管理事務所近くの74号棟の208号室をご見学されている。訪問にあたっては、家の内部はもちろんベランダもご見学され、その時にベランダに立たれたお姿の写真が話題を呼んだ。冒頭にでてきたベランダは、このベランダをそのまま切り出して保存したものなのである。
西武鉄道沿線ではほかにも大規模建設が進んだ
さて、西武鉄道沿線ではひばりが丘団地以降も大規模建設が進められた。例えば東久留米市には東久留米団地や滝山団地、隣の清瀬市に旭が丘団地など日本住宅公団が建設・管理する団地が増えた。
またそれが呼び水ともなり、沿線の人口は急増し、1967年には田無と保谷が市制を施行、1970年には東久留米が市制を施行。それよりも少し先行して1963年には西武池袋線が私鉄初の10両編成運転を開始している。
こうして北多摩の西武線沿線に人口増をもたらした「団地住民」は新しい風を地域に吹き込んでいく。特にひばりが丘団地に移り住んだ人たちはエネルギッシュだった。
例えば、ひばりが丘団地では共働きの世帯も少なくなく、子どもを預ける保育所の需要が高まった。しかし、団地は3つの自治体にまたがり、どの自治体も中々動けない。そのため、保育所開設を繰り返し訴えて開設にこぎ着けた。また、自治会でも「たんぽぽ幼児教室」という施設を開設している。
エネルギッシュな住民たちは買い物でも合理的な買い物行動が目立った。例えば、豆腐を小分けで買う、海苔を少量買うなど、今日では割と珍しくない光景だ。しかし、当時の商店では大家族前提の分量での販売が主体だった。しかし、それでは核家族主体の団地住民には多すぎる。
そこで、団地住民は小分け販売を要望した。これに対し、上手く対応できる店もあれば、撤退を余儀なくされる店もあり、その様子は週刊誌で特集されるほどだった。中にはこの記事を見て新たなチャンスを見つける者もいた。
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