すかいらーく発祥「ひばりが丘団地」64年経った今 古い団地とベランダはなぜ「保存」されたのか

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以前、紹介した草加松原団地(参照:「東洋一のマンモス団地「松原団地」60年経った今」)では、団地の開業に併せて駅を建設した。

一方で西武池袋線沿線の団地の場合、ひばりが丘と同じく駅から離れた所にある団地が多く、バスの利用が定着しているケースが多い。

中島航空金属の敷地だった

ひばりが丘パークヒルズの前身、ひばりが丘団地は1959年に建設された。日本住宅公団の設立が1955年ということを考えると、かなり初期に建設された大規模団地だ。千葉県の常盤平団地とほぼ同時期で、埼玉県の草加松原団地の建設よりは2年早い。

敷地はひばりヶ丘駅のある東京都西東京市と隣の東久留米市にまたがっている。2001年に合併で西東京市が発足するまでは東京都保谷市、田無市、東久留米市(市制施行前は久留米町)の3市にまたがっていた。面積は約34㏊。建設前は雑木林だったが、土地は元々中島航空金属という企業の敷地だった。

中島航空金属は第二次世界大戦終戦直前には日本の軍用機の約半数を製造していたといわれる中島飛行機の関連会社で、エンジンに必要な鋳物を製造していた。ひばりが丘団地に隣接するエリアに工場が建設されたのは1930年代後半のこと。第二次世界大戦が激化し、エンジンの需要が増すと、あわせるように工場の敷地を拡張した。その際にひばりが丘団地の場所も買収し、最終的には約21万坪の敷地を持った。

中島航空金属時代に敷設された引き込み線の跡地。東久留米市内では「たての緑地」として多くの人の散歩道となっている(筆者撮影)

また、工場拡張と同時期に西武池袋線東久留米駅から材料となる砂などを運ぶ引き込み線が敷設され、ひばりが丘団地の敷地南側を通った。ただ、ひばりが丘団地の敷地内に他の建造物が建設されることはなく、ほぼ雑木林のまま終戦を迎えている。

戦後、中島航空金属は瑞穂産業という会社になり、鍋や釜を作っていた。しかし、それでは採算がとれなかった。そればかりか、戦時補償債務に対して100%課税する戦時補償特別税もあり、特に兵器のエンジン製造にも関わっていた中島航空金属は税の負担が重かった。そのため、所有資産を売却せざるをえなかった。

こうした情勢下で瑞穂産業は京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)に協力し、引き込み線を売却する。京王は引き込み線を利用して吉祥寺駅から京王井の頭線を延伸する計画を立てていた。しかし、西武鉄道の反発をうけるなどして計画は頓挫する。そして引き込み線売却の際にひばりが丘団地の土地も京王が購入し、何かの事業を行う計画があったという話もあったという。

いずれにしても、規模に対して交渉者が少ない土地であった。当時、国策として団地建設を急ぎたかった日本住宅公団としては、駅から遠くなさすぎず、シンプルに土地買収が進められる大規模な土地というのは貴重な存在で、大規模住宅団地の建設には適地だったといえよう。

1958年に団地の建設がはじまると、1959年5月には162棟が完成した。住棟は1960年までに182棟完成し、2694世帯が入居した。

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