認知症の母と暮らす脳科学者の私にわかったこと 変わってしまったと家族がショックを受ける理由

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しかしこれまでのように母から笑顔で「お誕生日、どうしようかしらね」と話題を振られることがなくなってしまった。父の誕生日も、兄の誕生日も、私の誕生日も、みんな忘れられてしまったのだ。

一番高い頻度で聞かされてきた話が、母から取り出せなくなったことは、私にとってはショックなことだった。

だが、この出来事を母の目から見たらどんな風になるのだろう、と考えてみた。

私にとっては「世界の始まり」の話だから、その崩壊は致命的に思われる。しかし、母にとっては、ずっと子供と暮らした長い人生の中の一点に過ぎず、大事な一点だったとしても、それに引き続いて、いろんな驚きと、難しさと、喜びと、悲しみとがあっただろう。そして、すっかり子供が成人して、仲良く暮らしている今がある。その「今」は母にとって、自分が初めて大きな病気をして、今までになく大変な人生の時期なのかもしれない。

記憶を失うと、母は“母”でなくなるのか?

アルツハイマー病では認知能力が衰える。それで本人の領域、家族の領域が守れなくなって、互いに主体性の感覚や、自由が奪われることがある。そして、それはアルツハイマー病の人だけの問題ではなく、家族側が、その人に、今までと同じであることを期待してしまうことが問題であったりもする。

母にできないことが増えて、私が傷つくことがあるのは、私が母と自分とをうまく切り離せずに、また、母と娘という役割にとらわれて、母という個人が見えていないからなのかもしれない。

では、母の「母らしさ」とは、一体何なのだろうか?

脳科学者の母が、認知症になる ; 記憶を失うと、その人は“その人"でなくなるのか? (河出文庫)
『脳科学者の母が、認知症になる ; 記憶を失うと、その人は“その人"でなくなるのか?』(河出書房新社)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。

今までできたことができず、自分が知っているとおりに振る舞う母でなくなっていくのを見ることに、喪失感が伴うのは確かである。つまり、認知能力の衰えによって、一部「母らしさ」が失われるのは、疑いなく事実である。しかし、認知能力が衰えても、残っている「母らしさ」があるならば、それは一体何なのか?

何が「できる/できない」という外から見てわかりやすい能力だけでなく、また、「こうあってほしい」という私の期待とも関係のない、母らしさを知りたいと思った。母自身は何を大事に思って、何が好きで生きてきたんだろう?

はたして何かが「できる/できない」だけが、「その人らしさ」をつくっているのか。「その人らしさ」をつくっているものに「能力」だけではなく「感情」があることに、やがて私は脳科学の見地から気づくことになる。

恩蔵 絢子 脳科学者

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おんぞう あやこ / Ayako Onzou

1979年、神奈川県生まれ。脳科学者。専門は自意識と感情。2002年、上智大学理工学部物理学科卒業。07年、東京工業大学大学院総合理工学研究科知能システム科学専攻博士課程修了(学術博士)。著書に『化粧する脳』(茂木健一郎との共著)、『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか』(永島徹との共著)、訳書にアンナ・レンブケ著『ドーパミン中毒』などがある。

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