とはいえ、やはり悪いのは返さない奨学生という論調で、当時奨学金を借りた学生の中には「今に革命が起これば、帳消しになる」という、楽観的なのか、革新的な考えを持つ者も多数いたと報じられている。
つまり、60年代というのは「奨学金を返済しない卒業生」に加え、国民からの「血税」をうまく回収できない育英会も、批判の矢面に立たされていたようだ。それでも、この頃の奨学金はまだ、せいぜい月に2000円程度である。
他方で、60年代っぽい報道といえば『サンデー毎日』(毎日新聞社/1968年2月4日号)の「奨学金ハンストと三人の外大生」を紹介したい。記事によると「羽田事件」という学生運動に参加した学生が、「暴力的な集団行動に加わるような人物に、奨学金は支給できない」と、育英会から奨学金を打ち切られたという。
それに反対する形で奨学金を打ち切られた東京外国語大学の学生と、仲間の寮生たちがハンガーストライキを決行。学生運動真っ只中ということもあり、さもありなん感じだが、当の東京外語大学の学生部長や、東京大学の内総長も横浜国立大学の学生部長も「育英会のやり方はおかしい」「非常に困惑している」「やり方が一方的」と、思いの外、学生側の肩を持っていたのが面白い。
ただし、この年の10月に発生した日大闘争中に機動隊員の殺害事件が発生しているので、その後は見方も変わったのかもしれないが。
「奨学金をうまく使おう」という記事が増える1970年代
1970年代に入ると、大学進学率がグンと伸びたこともあってか、「奨学金をうまく使おう」といった具合の記事が増えてくる。
例えば『週刊読売』(読売新聞社/1972年1月22日号)の「奨学金制度を活用しよう! その応募のコツと全国大学の奨学制度」は「奨学金――これこそいささか貧弱だが期待に答えてくれる“打ち出のコヅチ”である」と、随分と大げさだ。
記事を読んでみると、この頃で約3万人の学生を対象に毎月3000円で、1971年度採用の場合、私立の学生はプラス2000円で5000円、芸術専攻科奨学生だと1000人の応募で8000円支給されていたという。
さらに、当時は“特別奨学金”と呼ばれる「特別貸与奨学金」が存在した。これは高校時代の成績優秀者を対象にし、自宅から通学するか、下宿するかで借りられる金額も変わり、そのうえで一般の貸与型の奨学金よりも借りられる金額が高いものの、一般の貸与型の奨学金相当の金額を返済すれば、残額返済は免除されるという、今からすると、よくわからない基準の制度だった。
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