「でなきゃ、ゲンちゃんがわざわざ過去の私に会いに来るわけないもんね?」
「違う!」
「いいよ、そんな嘘つかなくても……」
「俺は……」
「私ね、自分の病気のこと知ってるの。もう長くないってことも……」
「世津子……」
「だから、プロポーズされて、めちゃくちゃ嬉しかったんだけど、どうしたらいいんだろって悩んじゃって……。お父さん、お母さんには相談できなかった。悲しませるの目に見えてるから。だから、ユカリさんに……」
轟木は、自分がこの場に現れた時の、二人のぎょっとした表情を思い出した。
その後、ユカリが轟木の話し相手になっていたが、世津子はしばらく背を向けていた。
世津子はその時、自分の死を悟り覚悟を決めたのだ。
「ありがと、報告に来てくれて。めちゃくちゃ、嬉しかった。本当に、本当にこんな幸せなことはない」
「……」
「もー、泣かないの……」
そう言って、世津子は子供をあやすように轟木の目から溢れる涙を指で拭った。
「コーヒー、冷めちゃうよ?」
轟木は、ふるふると首を振った。
「どうした?」
世津子はまるで母親のように見える。
「もう、戻るつもりはないんだ」
「なんで? せっかく芸人グランプリで優勝したんでしょ? これからバンバン仕事増えるんだよ? がんばらなきゃ? なんのために東京に出たのさ?」
「お前がいたから……」
うつむいたまま、轟木はつぶやいた。
「お前の喜ぶ顔が見たいから……」
ボタボタとテーブルの上に涙が落ちる。
四十三歳の男が、ただただ肩を震わせ、泣いている。
何度もあきらめかけた。
三十代半ばの頃、まともなギャラさえもらえない自分たちにいらだち、まわりの芸人仲間とケンカばかりしている時期もあった。仕事をもらうためにネタ作りと頭を下げる日々。自分たちより、後から現れた若手芸人がどんどん先にテレビに出ていく。
不安とあせりの日々。
そんな毎日をずっと支えてきたのが世津子だった。轟木が暗い顔をしていると、いつでも笑顔で励ました。そして気づく。思い出す。
「お前がいたからがんばってこれたんだ……」
(俺は、こいつを喜ばせるためにがんばってきたんだ)
と……
だが、世津子はもういない。
「俺は、お前がいたからがんばってこれたんだ……」
(だから、もう……)
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