「戻れます」
「ユカリさんの他に時田家の人間がいるってことか?」
「くわしいですね」
「この喫茶店には、子供の頃から世話になってるからな」
「そうですか」
代わりに誰がコーヒーを淹れるのか、などは聞かない。轟木にとっては過去に戻れるなら誰でもいいのである。
「今日は、まだ、トイレには行ってねーよな?」
そう言って、例の席に座る黒服の老紳士を見た。
老紳士は変わらず小説を読みふけっている。
「ええ」
「わかった」
轟木は、ゆっくりとカウンター席へと戻り、再びクリームソーダを注文した。
数人の客が轟木に気づいて話しかけてきたり、サインを求めたりしてきたが、轟木は嫌がることもなく、得意のツッコミを交えたりして和気藹々としていた。
(本当に失踪中なのか?)
と、玲司が思ったほどである。
そうこうするうちに、一人、また一人と客が去り、陽が完全に沈みきったあとの店内には轟木だけになり、玲司が店内の照明を夜間営業用へと変えた。
「ほう」
轟木が感嘆の声をあげる。
外はライトアップされ、高い天井からぶら下がったシェードランプがポツリポツリと淡い光を浮かべる。夏は海に浮かぶ漁火を眺めることができ、秋の行楽シーズンには燃え立つような紅葉のライトアップで幻想的な空間が広がる。この喫茶店は季節ごとに違う顔を持っていた。この演出はここ数年で始めたものであり、轟木にとっては初めての光景である。
「亡くなった奥様に、会いに行かれるんですか?」
玲司は轟木が一人になるのを待ってこの話題を口にした。
「なんか言ってたか?」
少しばかり轟木の表情に戸惑いの色を見た。しかし、すぐに消え、轟木は静かに、
「なんで、それを?」
と、聞き返した。
「昼間、林田さんが来られてて……」
説明はそれだけで十分だった。
「なるほど」
轟木はすべてを理解したかのように、玲司の説明をさえぎった。
そして、しばし、沈黙となった。
数分、うつむいて黙り込んでいた轟木が、顔もあげずに、
「なんか言ってたか? あいつ……」
と、玲司に聞いた。
「もしかしたら、轟木さんが奥様に会いにここに来るんじゃないかと……」
「……他には?」
「いえ、特に、なにも」
「そっか」
「はい」
そして、また、しばしの沈黙が流れた。
その間、轟木は玲司や流とは目を合わせず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
ふいに、
「ずっと目標だったからね」
と、つぶやいた。
他に客がいたら聞こえなかったかもしれない。それほど、小さな声だった。
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