5年前に逝った妻、会うために過去へ戻りたい男 小説「思い出が消えないうちに」第2話全公開(3)

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「芸人グランプリ、ですか?」

「ああ」

答えて、轟木は左手薬指の指輪を愛おしそうになでた。

「俺たちというより、妻の……世津子の夢だった……」

ほんの少しくすんでいて、飾り気のない指輪である。

「せっかくだからね、妻の喜ぶ顔が見たくてね。いてもたってもいられなかった。世間では失踪だの行方不明だのと騒がれているけど、そうでもしなきゃ仕事が忙しくて、ここに来ることなんてできなかったから……」

そう言って、轟木は誰にというわけでもなく、はにかんだ。

聞いていて、玲司はさっきまで自分が考えていた下世話な憶測を思い出して、浅はかな自分を恥じた。

(なにが、三角関係だ……)

流の顔もまともに見られない。

玲司は、消え入りそうな声で、

「そうだったんですか……すみません……」

と、言って、誰にというわけでもないが頭を下げた。

「妻に報告したら、仕事にも復帰するつもりさ

轟木には、なぜ、玲司が謝っているのかはわからなかっただろうが、特に気に留めた様子もない。ただ、小さくうなずいただけである。

それから、胸ポケットから、キラキラと金色に輝くメダルを出した。

芸人グランプリ優勝者に贈られるメダルである。

「妻に報告したら、仕事にも復帰するつもりさ、だから……」

過去に戻らせてほしい、と言っている。

「……わかりました」

玲司が決められることではないのだが、過去に戻してあげたいという思いが言葉となって、口をついた。もちろん、そばで聞いていた流も気持ちは玲司と同じで、異論を唱えることはなかった。

ただ、

(じゃ、なぜ、林田さんはわざわざ轟木さんが来るのを待っていたのだろうか?)

そんな疑問は残った。

だが、大した理由ではなかったのかもしれない。もしかしたら、単純に轟木の行方を追っていただけで、他意はなかったのかもしれない。下世話なことを考えていた自分を恥じる気持ちもあって、玲司は一瞬頭をよぎったこの疑問を打ち消した。
それに、その後、すぐ、

思い出が消えないうちに
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「林田にもメールしておくよ」

と言って、轟木がその場で携帯電話を出し、メールを打つのを確認した。林田も、轟木が来たら連絡をくれと言っていたが、本人からメールが来るのだから問題はないだろう。

(よかった)

玲司は一人、胸をなでおろした。

その時……

パタリ

と、本を閉じる音がした。

音の出所は、黒服の老紳士の手元である。

老紳士は、閉じた本を小脇に抱えて音もなく立ち上がった。背筋をピンと伸ばし、クイと顎を引くと、姿勢正しくそのままトイレに向かって歩き出した。足音はない。トイレの前に立つと、ドアが音もなく勝手に開き、その中へ、すうっと、消えるように入った。ドアが閉まる。

(1月11日配信の次回に続く)

川口 俊和 小説家、脚本家、演出家

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かわぐち としかず / Toshikazu Kawaguchi

大阪府茨木市出身。1971年生まれ。舞台『コーヒーが冷めないうちに』第10回杉並演劇祭大賞受賞。同作小説は、本屋大賞2017にノミネートされ、2018年に映画化。川口プロヂュース代表として、舞台、YouTubeで活躍中。47都道府県で舞台『コーヒーが冷めないうちに』を上演するのが目下の夢。趣味は筋トレと旅行、温泉。モットーは「自分らしく生きる」。

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