「芸人グランプリ、ですか?」
「ああ」
答えて、轟木は左手薬指の指輪を愛おしそうになでた。
「俺たちというより、妻の……世津子の夢だった……」
ほんの少しくすんでいて、飾り気のない指輪である。
「せっかくだからね、妻の喜ぶ顔が見たくてね。いてもたってもいられなかった。世間では失踪だの行方不明だのと騒がれているけど、そうでもしなきゃ仕事が忙しくて、ここに来ることなんてできなかったから……」
そう言って、轟木は誰にというわけでもなく、はにかんだ。
聞いていて、玲司はさっきまで自分が考えていた下世話な憶測を思い出して、浅はかな自分を恥じた。
(なにが、三角関係だ……)
流の顔もまともに見られない。
玲司は、消え入りそうな声で、
「そうだったんですか……すみません……」
と、言って、誰にというわけでもないが頭を下げた。
「妻に報告したら、仕事にも復帰するつもりさ
轟木には、なぜ、玲司が謝っているのかはわからなかっただろうが、特に気に留めた様子もない。ただ、小さくうなずいただけである。
それから、胸ポケットから、キラキラと金色に輝くメダルを出した。
芸人グランプリ優勝者に贈られるメダルである。
「妻に報告したら、仕事にも復帰するつもりさ、だから……」
過去に戻らせてほしい、と言っている。
「……わかりました」
玲司が決められることではないのだが、過去に戻してあげたいという思いが言葉となって、口をついた。もちろん、そばで聞いていた流も気持ちは玲司と同じで、異論を唱えることはなかった。
ただ、
(じゃ、なぜ、林田さんはわざわざ轟木さんが来るのを待っていたのだろうか?)
そんな疑問は残った。
だが、大した理由ではなかったのかもしれない。もしかしたら、単純に轟木の行方を追っていただけで、他意はなかったのかもしれない。下世話なことを考えていた自分を恥じる気持ちもあって、玲司は一瞬頭をよぎったこの疑問を打ち消した。
それに、その後、すぐ、
「林田にもメールしておくよ」
と言って、轟木がその場で携帯電話を出し、メールを打つのを確認した。林田も、轟木が来たら連絡をくれと言っていたが、本人からメールが来るのだから問題はないだろう。
(よかった)
玲司は一人、胸をなでおろした。
その時……
パタリ
と、本を閉じる音がした。
音の出所は、黒服の老紳士の手元である。
老紳士は、閉じた本を小脇に抱えて音もなく立ち上がった。背筋をピンと伸ばし、クイと顎を引くと、姿勢正しくそのままトイレに向かって歩き出した。足音はない。トイレの前に立つと、ドアが音もなく勝手に開き、その中へ、すうっと、消えるように入った。ドアが閉まる。
(1月11日配信の次回に続く)
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