子ども強制参加の「音楽鑑賞会」が残念すぎるワケ 大人の先回りが「子どもの成長機会」を奪う
苫野:こうした対話型の研修をしていいなと思うのは、最上位目標をみんなで考え合うと、「自律」や「尊重」「共生」といったキーワードがやっぱり最終的にでてくるんですね。私なら「自由」と「自由の相互承認」ですが(笑)、学校の言葉としては「自律」や「尊重」がやっぱりしっくりきます。で、一度それを最上位目標として合意したら、自分たちの実践を、それを軸に振り返れるわけです。自分たちは本当に子どもたちの「自律」を支える実践ができているんだろうか、と。
工藤:そうですね。
保護者が学校を変えたい、と思ったら
苫野:ちなみに、保護者の方々も、子どもが通う学校をよりよいものにしたいと考えている人は多いと思うんですが、アドバイスはありますか?
工藤:その質問はよく受けるんですけど、やはり最後は教員や校長次第ですね。学校内部にある程度の理解者がいないと正直難しいと思います。僕も保護者の立場だったとしてやりきる自信はありません。というのも、たとえば保護者がこの本を持って担任や校長に直談判しても、クレーマー扱いされて終わるのがオチだからです。
なかなか建設的な対話の雰囲気にならない原因も、やはり公教育がサービス産業化したことで学校は保護者のことを「同志」として見られないんですね。
それを正常な状態に巻き戻すためには生徒、教員、保護者がみんな学校運営の当事者にならないといけないんですけど、みんなを当事者に変える作業って基本的に学校発信じゃないとできません。だからやはり校長なり、教頭なり、教員なり、学校内部に理解のある人がいないと難しいと感じています。
苫野:やはりそうですか。
私自身は、保護者の方々によく「読書対話の会」をすすめています。「学校の先生たちと教育について語り合いたい」と思っている保護者ってけっこう多いんですが、なかなか接点がない。だとすれば、その場をつくってしまえばいい。保護者が読書会を企画することがその場づくりの1つになると思うんです。
最初の参加者は保護者だけでもよくて、3、4人集まれば十分です。そこで、たとえば今回の対談本なんかを読んできて、内容について語り合う。すると面白いことに、対話の輪って広がるんです。一度参加して対話の楽しさや意義を感じた人が、別の人を誘ったりもする。その流れで、先生を誘ってみるのもアリだと思います。生徒たちを誘ってみてもいい。そうすれば、学校側との接点もできるし、先生たちとももっと仲間になれますよね。実際にそんな動きがいろんなところで広がっています。
工藤:それはいい試みですね。
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