読むことは食べることに似ている。言葉は食べもののように問答無用で体内に入ってきてしまうし、変なものを食べて腹を壊すように、変な言葉を読んで心を壊すこともあるのだろう。毎日泥水をすすっているが何の影響もありません、と言う人はいないし、毒をがぶがぶ飲んでも平気です、と言う人はいない。ものを食べれば身体に影響が出るのは普通のことだ。
わざわざ言語的汚物を食べてはいけない。それは便器の水をすすって腹を壊すようなものだ。自分が日々どんな言葉を食べているのかは自覚したほうがよいと感じた。無自覚に言葉を食べていれば、腹を壊すように頭を壊す。
もっとも、私はジャンクで粗雑な言葉も好きだ。10代の頃からネットを見ていると自然とそうなる。ジャンクな言葉もきれいな言葉も雑然と同居してるところが魅力だと思う。きれいなものしか読まないことには、ジャンクフードを一切口にしない人間に似た退屈さがある。
図書館で本を読むようになり、ジャンクな言葉の割合がものすごく少なく、物足りなさを感じたのも事実だった。あるいは本の世界で過激だと言われている文を読んで、こんなのネットにいくらでもあるじゃん、と疑問に思ったりもする。きれいな言葉ばかり食べていれば、少し刺激の強い言葉に仰天することになるし、ジャンクな言葉にはジャンクゆえの面白さがある。
ネットの書き込みがすべて手書きだったらどうなるのかは考える。匿名的な言葉が脳内にスーッと侵入してくる感覚は薄れそうだ。手書きの文字は異物感を持ち、他人によって書かれたものだと意識される。ネットの文字は手書きではなく、顔がなく、声質がなく、異物感がなさすぎるのかもしれない。するすると食べることができてしまう。
ネットで断片的な言葉を大量に食べる。人は本を読まなくなったと言うが、これほど多くの人がスマホを見つめて大量の文字を「食べている」時代は前代未聞だろう。毎度の食事に昔ほど時間をかけなくなったようなものか。いちいちコース料理なんか食ってられないし、それよりはポテチ感覚でネットの短い書き込みを食べたり、数千字の記事を食べたりするほうが気楽なのだろう。
言葉の断食で頭の中が静かになる
読むことが食べることならば、何も食べないという発想も出てくる。言葉の断食である。文字を読まない。徹底して読まない。10日ほど試した。ネットを見る時間を制限し、次に数日全面的に禁止し、その後、読書も禁止してみた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら