考えてみれば、紫式部は謙虚さを自分に強いるあまり「漢字の一すら書かない」女であった(『「紫式部」超秀才なのに能力を隠し続けた切ない訳』参照)。そりゃ「真名(=漢字)書き散らし」ている清少納言なんて、「したり顔」とでも評したくなる、うっとおしい存在だろう。
しかしこの悪口は誤解されていることが多い。例えば、紫式部と清少納言は宮中で顔を合わせたことがあって、それで紫式部が日記に悪口を書いていたのでは、と理解する人がいる。しかしこれは誤解だ。2人がそれぞれ宮中に出仕した時期は、4~5年ずれているからだ。
清少納言が宮中を去ったのは、長保3(1001年)年くらいだと言われている。一方、寛弘2(1005)年くらいに紫式部が出仕開始。つまりいくら同じ勤務先であっても、さすがに5年ほど出仕時期が離れていたら、直接会うことはない。ましてや紫式部は彰子に仕え、清少納言は定子に仕えるという、ライバル会社にいたようなものだ。交流があったとは考えづらい。
もちろん生きている時代が異なるわけではないので、宮中ではなく、都のどこかですれ違うくらいならあったかもしれないが。
「紫式部と清少納言ってお互い意識していたライバルってわけじゃないのか」とがっかりする方もいるかもしれない。しかし私は、むしろ2人は直接会ったことがないからこそ、この日記の悪口の面白さが際立つのだと思っている。
清少納言の随筆は、今でいうベストセラー
『紫式部日記』を読むと、清少納言の書いた文章は、5年遅れて出仕した紫式部に届くくらい、当時の貴族たちに読まれていたことがわかる。おそらく清少納言の随筆は、今でいうベストセラーだったのだ。
当時、『源氏物語』が周囲にどの程度評価されていたのかわからないが、紫式部の書きっぷりを見る限り、彼女の悪口は「当時自分よりよっぽど評価されていた、ベストセラー作家への批評」だったのではないか。
つまり、自分と同じ立ち位置にいるライバル作家への批判というよりも、もっと高い位置にいる「みんなが褒めるベストセラー」に対して、1人の新人作家が「えー、あの本、別に私はいいと思わないけど」と書いているようなものだったのではないか。
紫式部というと、私たちはつい大文豪を想像してしまうが、平安時代においては、1人の自信のないインテリ女子だったのだ。
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