つねに前を向く大久保は「維新の三傑」の1人になってもなお、日本を前進させるべく、政治への意欲を燃えたぎらせた。自分を訪ねてきた福島県令の山吉盛典に対して、大久保は壮大なビジョンを語っている。
「維新の志を貫徹するには、30年はかかるというのが、正直なところである」
胸中をそう明かすと、大久保は「仮に3つに分けて考えよう」と言って、下記のようなビジョンを打ち出している。
第1期(明治元年~10年):兵乱が多い「創業の時期」
第2期(明治11~20年):内治を整える「殖産の時期」
第3期(明治21~30年):後進の賢者に引き継ぐ「守成の時期」
西南戦争は、大久保がいうところの「第1期」の時期に起きて、今それが鎮圧されたことになる。いよいよ第2期に入る時期だとして、大久保は決意を改めている。
「利通は不肖ながら、十分に内務の職務を尽くさんと決心している」
さらに第3期をも見据えて「これからの第2期の業は慎重を期して、将来に受け継ぐ基礎を築くことが必要だ」と述べている。かつて自分と木戸の間を取り持つべく奔走した、11歳年下の伊藤博文も、将来を担う1人として期待したことだろう。
家族との時間を疎かにはしなかった大久保利通
第3期の「守成の時期」に向けて、やらなければならないことは山ほどあった。明治政府を発足させてからというもの、大久保の政務は多忙を極めた。だが、それでも大久保は、家族の時間を疎かにすることはなかったという。
大久保が結婚したのは28歳のときのこと。薩摩藩士である早崎七郎右衛門の次女、満寿子(ますこ)を妻に迎えて、4男1女をもうけている。さらに芸妓の杉浦勇(おゆう)という妾が京都にいた。大久保は彼女との間にも4人の息子をもうけた。
全部で8男1女。長男の利和、次男の伸顕、三男の利武、四男の利夫、五男の雄熊、六男の駿熊、七男の七熊、八男の利賢、そして長女の芳子である。いったい、どんな父親だったのか。
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