死を予感?「大久保利通」暗殺直前に見た夢の中身 あらぬ誤解によって47年の生涯を閉じた

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大久保利通
大久保利通の功績に迫ります(写真:近現代PL/アフロ)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)の最終回は、西郷隆盛の死が大久保に与えた影響、そして大久保の最期について解説する。
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<第57回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。薩長同盟を結ぶなど、武力による倒幕の準備を着々と進める大久保とその盟友の西郷隆盛に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷が下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。さらに「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球を併合。「地租改正」などの大改革を進めていく。
一方、士族たちは大久保への不満を募らせ、西南戦争が勃発。その中心となった西郷は自刃する。

西郷隆盛の死を冷静に報告

大久保利通は黙して語らない淡々とした態度をとることが多かった。大隈重信は「吾輩の知っている大久保は、いつも沈んだ、考え深いような人であった」と言っている。それも大久保が「冷酷な人物だ」と誤解を招きやすかった一因だろう。

西郷隆盛が下野するときもそうだった。「あとを頼む」と言われても、大久保は「知るか」と言い放つのみ。同席した伊藤博文をあきれさせている。そして、西郷の死を知った後ですら、伊藤と黒田清隆に対して冷静に報告している。

「西郷1人の首だけがない。探索中である。詳細はあとより」

しかし、その一方で、家族には違う姿を見せていた。妹のみね子は大久保の姿をこう回想している。

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