明治10(1877)年5月6日の日記には「昨日から寒気があり、神経痛が骨にこたえる」と記録。その翌日には、西南戦争について書きつづっているが、日記としてはこれが最後になった。5月19日、京都の別邸で危篤状態に陥った木戸のもとを、明治天皇が見舞いに訪れている。明治天皇は、融通が利かないほど生真面目な木戸のことを、とりわけ厚く信任していた。
「病質は胃中に腫物のごときものを生せし」
ドイツ人医師ウィルヘルム・シュルツが「難治の胃病」と診断した、その病は胃がんだったようだ。ただし、昨今は「大腸がんの肝臓転移」という別の見解も出てきている。
意識がもうろうとするなか、木戸は「西郷もう大抵にせんか!」と叫び、5月26日にこの世を去る。享年45歳だった。そして約4カ月後の9月24日、西郷が戦地で自刃。49歳で人生の幕を閉じている。
西郷の死を淡々と報告した大久保
維新の三傑――。そう呼ばれた3人のうち、2人が亡くなった。1人残った大久保は、西郷の死を知ると、伊藤博文と黒田清隆にこう報告している。
「本日24日午前4時に大進撃。西郷、桐野、村田のほか60名ほど討ち取る。降伏した者は5名いる。西郷1人の首だけがない。探索中である。詳細はあとより」
いち早く報告することが目的だとはいえ、極めて淡々としている。無味乾燥といってよい。
思えば、西南戦争の最中から、大久保はすでに前を見ていた。日本初の第1回内国勧業博覧会も、西南戦争を受けて「延期させるべきだ」という意見もあがったが、大久保は松方正義と協議したうえで、開催を決断。見事に成功させている。
西南戦争が勃発した当初、西郷の関与が明らかになると、大久保は「そうであったか」とはらはらと泣いた。そのときの涙は、西郷の最期を見通していたからかもしれない。
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