「女子アナ」は"人生の成功者"だという最大の誤解 ドラマ「エルピス」が描く彼女たちの生きづらさ
とはいえ、『エルピス』はカンテレが制作だが、フジテレビ系列で放送されている。そもそもプロデューサーの佐野亜裕美はTBSの局員だったが、TBSでは実現できなかった本作をカンテレが制作するということで同局に移籍したのだという。
キー局ではこのドラマの企画が通らなかったという事実自体が、「正しさを追求した」取材内容がなかなか放送できないドラマの登場人物たちと重なる。自分たちにブーメランのように返ってくる可能性もあるこの作品にGOを出したカンテレをはじめ、この役を受けた長澤まさみや、脚本家・プロデューサーといったスタッフの覚悟に心からの賛辞をおくりたい。
だからこそ、例えば「長澤まさみの色気にメロメロ」といったような記事が多く出回ることは本人たちも不本意だろうし、もし実際に女子アナたちが何らかのメッセージを訴えたとしても、結局は彼女たちの表面にしか大衆の関心はたどり着かないのではないだろうか、という諦めにも繋がってしまう。
女子アナたちの思いを“ないもの”としていいのか
だが、それでも――女性アナウンサーたちの中にある思いを“ないもの”のようにしてしまうのはマズいのではないだろうか。
実際に存在するのに、誰かにとって不都合なものが“ないもの”のようにされる。そのうちに、誰も目の届かないところに置かれ、人々は忘れてしまう。
それこそ、このドラマで扱われている死刑制度にも通じるものがある。実際に行われているにもかかわらず、多くの人はその詳細を知らない。大衆が無関心なばかりか、その執行の責任者たる法務大臣までもが「はんこを押す」「地味な仕事」という感覚になる。
仮に権力者にとって不都合なものだったとしても、ちゃんと“ある”のならば、その存在を提示する――それこそが、マスメディアの役割ではないだろうか。
本作の脚本を務める渡辺あやは、人間には“不都合な欲望”があると語る。昨今はそれを〈「見えるところには置かないようにしましょう」という風潮がある。これが果たして本当にいいことなんだろうか……というのが、ずっと思っているところ〉なのだと言う(「文春オンライン」2022年10月31日)。
隠されているけれど、実際は存在するものを、ちゃんと“ある”と提示すること。同じテレビ局の中でも、ジャーナリズムの前にドラマが体現しているのは皮肉なことかもしれない。
『エルピス』で浅川は、マスコミが犯した罪を、自分が犯した罪かのように謝罪する。組織に所属していると、“私の罪”を“私たちの罪”に薄めようとする者が多い中で、彼女は“私たちの罪”を“私の罪”ととらえて謝るのだ。
主語を大きくすることで、見えなくなることがある。本稿でもわかりやすく“女子アナ”と括ってしまったが、その実はさまざまだ。浅川のように逆に主語を狭め、“私たちの罪”を“私の罪”と自覚する人が増えることが、何かが変わる希望になるのではないか、と信じている。
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