高学歴・理系エリートがカルトにハマる意外な訳 「論理」だけで世界を理解する危うさがある
一方で、世の中では完全に論理で説明はできなくても「~すべき」「~してはいけない」というものがたくさんあります。「人を殺してはいけない」などはその代表例でしょう。なぜ人を殺してはいけないのか、を論理で完璧に説明することは不可能です。
それは価値観に関わることで、「規範論」のジャンルの問題になります。こちらは理系の論理ではなく、伝統や文化、慣習などに基づいています。それ故に、規範論は論理性・実証性が劣るわけですが、自然科学では決して説明できない範囲について語ることができます。
このような規範論を無視して、理系的な論理だけをもとに世界や人生を考えるのは危険です。世界や人生はとてつもなく広大である一方、自然科学が説明できる範囲は非常に狭いからです。自然科学的な見方に偏重して考えれば考えるほど「なにが正しくて、自分は何をすべきかがわからない」という空白地帯が広がりかねません。
そんなとき、カルトはやってきます。空白を埋められず苦悶する人々に対し、救いの手を差し伸べるのです。
オウム幹部の悩み
以前私は、オウム真理教の幹部が出演した『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)を視聴する機会を得ました。麻原彰晃、上祐史浩、村井秀夫、杉浦実が出演した「激論 宗教と若者」(1991年9月放送)だと記憶しています。
同番組における上祐の弁舌はさすがの一言でした。後に「ああ言えば上祐」という不名誉なあだ名をつけられたような屁理屈ではなく、非常に論理的な弁が展開されたことで、オウムの修行が本格的且つ正統的なものであるという印象付けに成功していました。
麻原の宗教者然とした言動もあり、パネラーや視聴者から高い評価を受けたことは容易に想像がつきました。事実、田原総一朗が著した『連合赤軍とオウム』(集英社)によると、番組終了後にパネラーたちが「麻原は本物だ」と口にしていたようです。
しかし、麻原と上祐の言葉以上に、阪大理学部物理学科にダントツで合格し、同大学院の試験もまたトップでパスした村井の発言が、私にとってはずっと印象的でした。彼は、非常に限られた科学の範囲を広げたいといった旨を主張していましたが、ここに理系出身の信者たちによく見られる、ある種の無常観を想起したからです。
なす術なく死にゆく患者、自分が生きる意味、到達しない真理といった大きな問題に対し、科学が無力であると痛感した信者たちの様子は、無数のオウム関連本でもよく目につきます。
そのなかでもとくに、林郁夫の『オウムと私』(文藝春秋)、早川紀代秀元死刑囚の『私にとってオウムとは何だったのか』(川村邦光との共著、ポプラ社)、広瀬健一元死刑囚の『悔悟』といった本人による手記を読むと、悩める彼らの姿がありありと浮かんできます。
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