高学歴・理系エリートがカルトにハマる意外な訳 「論理」だけで世界を理解する危うさがある

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彼らが抱えた問題は、科学が記述できる範囲から明らかに外れています。皮肉なことに、ありったけの時間・労力を科学に注ぎ込んでも一向に解決しないどころか、むしろ虚しさを蓄積することになりかねません。その虚しさが世俗を包み込んだ先に、現世否定的な超越世界をオウムに見てしまったと考えるのは、少し深読みのしすぎでしょうか。

村井が愛読した『かもめのジョナサン』(リチャード・バック著)を読むと、世俗的な価値観を投げ捨て、よりよき生のあり様を追求した村井や信者の姿が見えてきます。

同書は、「ぼくの心境はこの本に書いてある」とし、村井から母の手に渡されていますが、豊かさの追求が自明の目的だった時代を生きた母としては、村井の生き方を理解するのは難しかったと思います。

スマホを使わない時間の重要性

かつて、日本には多くの人が共有できる大きな物語がありました。高度経済成長期であれば、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種の神器の所有を目指し懸命に働いたように、より良き生活のため直進的に発展していくストーリーがありました。

労働の意味や訪れる困難も、この物語を前に進めるためだと理由付けができたのです。一所懸命働けば、その分、給料を得ることができる、組織で出世すれば給料は増える、その結果、生活は豊かになっていく、というストーリーです。

ところが、そんな大きな物語は、もはやどこにも見当たりません。物語を信じることで得られたメリットが消え不安定になった私たちは、世界観を求め苦悶することになります。

私たちの多くは、激烈な物語に放り込まれる経験をしないし、かといってかつてのような大きな物語を見つけることもできない。そんな虚しい世俗に見切りをつけ、現世を超越した精神世界に物語をつくることで「生きる意味」を探るという手法もありますが、そういう人たちが過激化してしまった末の最終形態がオウム真理教だと考えると、なかなかそこには飛び込めません。

そんななか、刹那的な生き方を強力に後押ししているのがスマホという武器です。ユーザーが気に入る情報・コンテンツが次から次へと流れ込んでくるのですから、刹那的・享楽的な日々にはもってこいです。

何もしない暇な時間があればこそ、そして人生を真正面から考えてしまうからこそ、「生きる意味」について考え込んでしまい、袋小路に入ってしまう。ならば、そんな難しい問題を棚上げし続ければよく、その手法としての刹那的な生き方もまた、決して卑下すべきでない処方箋だと思います。

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