地方芸術祭が掘り起こす土地の歴史と感性の融合 「大地の芸術祭2022」に見る農村文化体感の意義

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名和晃平の「Force」は、越後妻有里山現代美術館 MonETの展示室の中にある。天井から床に向かって落下している黒いシリコンオイルが、まるで糸のように見える作品だ。

間近で見ると、液体であることがようやくわかる。しかし、何とも不思議な感じがして、液体であることを確かめるために、ずっと凝視したくなる。ここでも、鑑賞者は虚実の間の意識の行き来を感じる体験ができるのではないだろうか。

名和晃平「Force」
名和晃平「Force」展示風景。黒い糸のような筋に近寄ってみると液体であることがわかり、思わずじっと見つめてしまう(越後妻有里山現代美術館 MonET、撮影:小川敦生)

美術作品は鑑賞されてこそ

「美術が観光で消費されることについてどう思いますか」

実は、筆者は今年7月に、勤務している大学を訪れたある人からこんな問いを受けた。その時は時間があまりなかったこともあり、「芸術祭などに出展している作家が納得しているのなら、いいのではないでしょうか。そうでなければ、出品しないという選択肢があります」といったことを答えた。

しかし、後で考えてみて、この答えはあまり十分ではないように思えた。その後、筆者は「大地の芸術祭」などの地方の芸術祭に出かけた。そして、実際に作品を見たり、現地の人々や作家に話を聞いたりすることで、この問題について改めて考えてみた。

美術作品は、実際に鑑賞されることで意義が生まれる。「美術作品は、鑑賞されることで初めて完成する」と言う考え方もあるくらいだ。それが観光目的であったとしても、人々の目に触れることは極めて大切なことである。

地方の芸術祭のもう一つの意義は、その場でしか生まれえないような作品が世に出てくることだ。大赤沢分校の「記憶のプール」などは、まさに場所が生み出したものだ。しかも、おそらくはその場所で鑑賞されるときに、最もいい表情を見せる。芸術祭には、人の足をその地域まで運ぶ力がある。制作した作家も、表現を最高の状態で受け止めてもらえてこそ、制作の喜びを感じるのではなかろうか。

今は過疎地となってしまった土地にも、長い歴史が育んできた貴重な文化がある。地方の芸術祭は、地域の文化の掘り起こしにつながり、参加する美術家には表現の多様化をもたらし、訪れる鑑賞者にとっては現代美術と土地の文化の両方に触れる貴重な機会になる。「消費」とは異なる側面を持つと思うのだが、いかがだろうか。

小川 敦生 多摩美術大学教授

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おがわ・あつお / Atsuo Ogawa

1959年生。東大文学部美術史科卒。日経BPの音楽、美術分野記者、『日経アート』誌編集長、日経新聞文化部美術担当記者などを経て、2012年から現職。近著に『美術の経済』。

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