90年代に「エア マックス」が爆発的に売れた理由 アパレル全体のマーケットそのものが変わった
スニーカーのことは、すべて嫁さんに教えてもらった。嫁さんは今でも「究極のスニーカー好き」だと思う。中でも「エア マックス 1」のコレクションは学生時代から目を見張るものがあった。留学中にたまに2人で出かけたデートは、いつもスニーカーショップだった。貧乏学生だった僕は「エア フォース 1」を3年間で3足買うのが精一杯だったけど、裕福だった嫁さんは、当時から同じモデルを必ず2足以上買い、1足をコレクション用にとっておくほどだった。僕になかった才能が、商売のヒントをくれた。
独立当初は、買い付けにも同行してくれていて、女性向けスニーカー専門店のレディフットロッカーで、「これは日本未発売のモデルだから大きいサイズを買って帰ろうよ」などと、僕にアドバイスしてくれていた。僕はスニーカー屋だけど、決してコレクターではなく、むしろ教えてもらった側。「スニーカーはあくまでも商材の一つでしかない」と思うし、今でもなるべくお客さんの目線でマーケットを見ている。
例えば、「エア マックス 95」のブームを引きずり、後継モデルの「エア マックス 96」や「エア マックス 97」を仕入れすぎて在庫があふれた店も多かったと聞くけど、僕は、お客さんが今欲しいものだけを集めていたから、反動で在庫過多になることもなかった。商売がうまくいった秘訣は、スニーカーを「好き」ではなく「売れる」という目線で見る冷静さがあったからかもしれない。
「エア マックス 95」が売れた理由
ところで、なぜ「エア マックス 95」は売れたのか。少し歴史をさかのぼって、1989年の「ベルリンの壁の崩壊」がひとつのきっかけだったと僕は考えている。それまでは、スニーカーといえば、アディダスやプーマを筆頭とするヨーロッパのスニーカーのことを指していた。それがベルリンの壁の崩壊を機に、自由主義の波が押し寄せた。
90年代に入り、その波は徐々に大きくなる。ソ連が崩壊し、アメリカの一強が鮮明となった。95年に発売された「マイクロソフト ウィンドウズ95」がそれを決定的にした。この年、「アメリカ製こそ最先端でいいものだ」という認識が確実なものになった。そのタイミングで売れ始めたのが「エア マックス 95」だ。「スニーカーは自由の象徴だ」と言わんばかりに、ナイキが頭角を現し始めた。
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