そして時は1973年。高校に入学した厚木さんは、人生を変える社会的事件に直面する。
「もともとは理系学部への進学を考えていたのですが、『オイルショック』が発生しました。そして、そのあおりで実家がさらに貧しくなってしまって……。『これからは理系の時代だ!』と思っていたのですが、この一件で自分が抱いていた理系への期待のようなものが、ある意味勝手な判断ですが崩れてしまって。そこから、『自分は社会そのものを学ぼう!』と思うようになり、東京の私立大学の政治経済学部に進学しました」
ただ、家庭の事情もあり、大学進学に際しては父がローンを組んだほか、厚木さん自身も奨学金を借りることになった。かなり追い込まれた状況での大学進学だったが、それを助けてくれたのは父親と同じ引揚者の団体であった。
「東北から上京するわけですが、父の『樺太引揚者』のツテをたどって、西東京の小平市にあった、樺太引揚者が作った寮に入って4年間を過ごしました。樺太から追われてたどり流れ着いた者たちの移住先は北海道が圧倒的に多く、東北の出身は私だけでしたね。なので最初は少しだけ孤立していましたが、仕送りのインスタントラーメンをみんなで、1袋を2回に分けて節約して食べたりして親交を深めました。
大学自体は都心にあるので、通学には1時間半かかりましたが、それでも毎日2食は出るし、寮費は2万円以下だったので、安心して生活できました。まあ、その分環境は劣悪で、扇風機の使用が禁止されていて、網戸もない状態の窓を開けっぱなしにして、団扇だけで4年間は夏を乗り切りましたね。これも今の時代では無理ですよね」
アルバイトをしたり特別な制度も利用
厚木さんの父親はなけなしの金で教育ローンを組んでくれたが、それはあくまでも学費用。いくら苦学生といっても、生活費や交際費はかかるため、厚木さんは父親に黙って夏休みは建設現場で塗装工の手伝いをし汗水を垂らし、手渡しでアルバイト代をもらった。
さらに、厚木さんは「特別貸与奨学生制度」という、高校の評定平均値などの条件を満たせば通常の奨学金よりも多めに額面を支給してもらえる一方で、返済額は通常の奨学金と同じ金額になる制度を利用していた。一般貸与相当分は返済義務を負うものの、給費扱いの分は返済免除となる……というものらしい。(1984年に廃止済み)
「この頃は銀行振込ではないので、毎月印鑑を持って学生課に受け取りに行くんです。『○○学部の○○は、ちゃんと学校に通っています』と申告して、現金で奨学金を受け取っていました。たぶん、真面目に通っているか確認の意味合いもあったのでしょう」
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